微小重力環境の「ライナスの毛布」 -Security Blanket-
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4-2 地上環境と微小重力環境の比較考察
空間感覚における神経-感覚系の作用
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向井飛行士らの証言によれば、微小重力状態においては、身体を包む衣服まで含めて、外部環境と身体表面との接触部分が大きく減少する。これが、視覚や体勢感覚の混乱などとともに、空間感覚の不安定化や宇宙酔いなどを引き起す要因と考えられる( * )。 脳生理学の実験では外界からの脳への刺激を最小限にすると種々の幻覚などの感覚異常が生ずることが知られている。外的刺激には視覚(光)や聴覚(音)などから来るものが圧倒的と思われるが、じつはそれ以上に触覚を通した隣接世界との接触から得られる刺激が重要であることが今回の研究からあらためて確認できた。

触覚の本質は、触ることがつねに触られることでもあるという相互性にある。生体は、視覚的に世界を表象・了解する以前に、隣接世界とのたえざる触覚的インタラクションを通して自らを包む環境の中に恒常的な不変項の存在を感じ取り、それとのつながりの中でそのつど自己の基盤を形成/再形成しているのである。

われわれの研究は、空間感覚を基礎づけるものとしての「身体的接触」というファクターに注目するものであった。われわれの身体が何ものとも接触せず虚空に浮かんでいるとすれば、その「解放」状態はただちに心理的生理的不安定を引き起す。この点に関連する事実として以下の点があげられる。これらはわれわれがμG実験でえた考察結果と矛盾しない。

(1) SAS(宇宙不適応症候群)は、マーキュリーやジェミニなど、排便などの身動きすら苦労するほどの狭い宇宙船内ではほとんど見られず、比較的広いアポロ宇宙船の時代以降に問題になってきた。

(2) かつてスカイラヴ3号で行われたクモの生体実験で、十字グモの「アラベラ」が最初にはった巣は、飼育ケースの隅の方に位置し、巣の中心に向うほど目が粗くランダムで、隅の方ほど目が細かいという、地上とは異なる形状のものだった(1973年)。これは、まずケースの壁体に隣接した部分の目を密にすることによって肢体と外部環境の安定したつながりを確保し、それを通じて刺激と運動感覚の原基盤(マトリクス)形成をはかったからと考えられる。クモは、この「原順応」を通じて2日後には地上と同じような巣をはることができた。
NASA関連サイト参照 >>

(3) 映像記録を検証すると、重力から解放状態におかれた宇宙飛行士の初期活動は、まず船体にふれたり把手をつかんだりして、外部に安定した参照項の存在を確認することから始まっている。個人差があるとはいえ、訓練を積んだ飛行士は宇宙船内で姿勢や状況に応じて参照軸をさまざまに設定し直せるが、この順応の起点には、恒常的な原参照系の存在了解があると考えられる。

地上環境においては、重力によって身体はたえまなく何かと接触し、自分の身体感覚は身体の表面を越えて隣接世界と密接に結びつき、親密性のある世界を形成している。いいかえれば地上に生きるわれわれは、「世界に触れられている」ことによって、つねに見えないクモの巣を、あるいは見えないライナスの毛布、つまり“invisible security blanket”を身にまとっているのである。

宇宙の微小重力環境がそれをうばうものだとすれば、訓練を積んだ宇宙飛行士にとってだけでなく、将来、宇宙を訪れる一般人にとっても、身体と環境を触覚的につなぐツールとしての《ライナスの毛布》は必要であるし、有益であると思われる。今回のわれわれの研究は、それを研究・開発するための出発点を手探りするものにすぎないといえるが、宇宙環境における造形芸術の新たな存在領域を示唆するものでもあった。
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(上) 微小重力下でもがく蛙
重力の喪失は、視覚と平衡感覚に混乱をもたらすだけでなく、外部環境との触覚的つながりを減退させ、心理的生理的不安定性と空間感覚の乱れ、宇宙酔いなどを引き起す。

(右) μG状態での中立姿勢(neutral body posture)は、重力から解放された人間の原姿勢を示す。この姿勢での身体の周囲空間および胴体と四肢に囲まれた前部に生じる小空間が、security blanketを位置づけるうえで重要である。
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出典: 関口千春 他著『宇宙医学・生理学』宇宙開発事業団編 1998


《ライナスの毛布》試作は幼児たちに豊富な触覚体験を誘発した。試作品は身体的スケールのものを基本としたが、狭い宇宙環境内でどのようなスケールのものがふさわしいのかを再考する必要がある。
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スカイラブ3号の飼育ケース内にはじめて巣をはった直後の十字グモ・アラベラ (1973年)。乱れた巣の様子が興味深い。

出典: http://history.nasa.gov/SP-401/ch3.htm#43
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不安定な体勢を建て直すためにあわてて把手につかまる毛利飛行士。
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船内ではさまざまなものを持って移動するが、単なる持ち物では身体運動のよりどころにはならない。《ライナスの毛布》は、自分の身に沿うと同時に、より恒常的な安定感のあるものとつながっていることが重要である。
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宇宙環境下で身体と空間をつなぐ接触物の多様なありよう。
S100E5041 2001/04/21 01:07:30
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同前
S102E5061 2001/03/10 02:04:25
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同前
ISS002E5523 2001/04/10 13:20:57
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長期の滞在によって慣れ親しんだ宇宙ステーション・ミール内で戯れるロシア人宇宙飛行士のSergei Krikalev。この映像は、われわれのμG飛行での「乗り物」実験の発想源のひとつであった。

出典: "Out of the Present: un film de Andrei Ujica", Fondation Cartier, Paris 1999
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