『JLFニュース』第23号、2002年2月、日本ランドスケープフォーラム発行、p.26-27


インタビュー「連載:境界線から(5)」|インタビュアー:阿部尊美

このコラムでは、ギャラリーや美術館等の空間以外の場所で、場所や環境との関わりを意識しながら活動を行なっている美術家や美術に関わる方々を取材しています。前回に引き続き、美術作品と場所との関係をめぐり、美術制作と執筆を通じて活動されている井上明彦氏にお話を伺いました。

瞬間移動 ----- 井上明彦

これまでの井上氏の制作活動に「瞬間移動」というパフォーマンス的な作品がある。この作品と、ランドアートの代表的作家ロバート・スミッソンについて井上氏が書かれた論文をもとに、その共通する視点について話いただいた。

*《瞬間移動》:1998年に大阪市平野区で行なわれた美術展「モダンde平野」で、井上氏は「瞬間移動」という落書きをもとにしたパフォーマンス的な試みを行なっている。そこでは、町を歩く中で見い出した落書き・空き地・老人という三つの要素から、非常な速度で解体され均質化していく都市空間の底に空虚な部分が存在することに焦点が当てられている。

*『作品/空虚/場所』:井上氏は、『「作品/空虚/場所」―ロバート・スミッソンの「サイトとノンサイトの弁証法」をめぐって―』と題する論考の中で、サイト・スペシフィックなアート、つまり、その場所でしか存在しない「場所の固有性」に関わる芸術は、場所を差異化してアイデンティティを仮構し、地域イメージの向上をはかるための手段の一つとなり、展覧会やイベントという既存の枠組の内部で消費されることへの問題点、また、それらの芸術プロジェクトは、町の空間を美術館化するにすぎない点を指摘している。さらに、現在のアートが抱えている場所の持つ問題を取り上げるうえで、場所の固有性に関わる芸術実践の源泉となった60年代後半のランドアートの形成段階に立ち返り、特に、ロバート・スミッソンの理論と実践について考察している。
(阿部尊美)


作者不詳「瞬間移動」
ロバート・スミッソン《部分的に埋められた小屋》1970:
ケント州立大学で行われたプロジェクト。 小屋の梁が折れる
まで土砂で小屋を埋めていく。 小屋が壊れた瞬間に、
破壊と建設、人工と自然、内部と外部が一体化する。

Q:
スミッソンの風景観や時間に対する視点は、その場に身体的に参入することでしか経験できない無規定な状況であるために、従来のモダニズム的視点からは「演劇的」と批判されたそうですが、私はむしろスミッソンのような身体を伴う経験を通じた内部に没入するような空間の把握の仕方の方にリアリティーを感じ、また、これまでの人間の歴史的時間や空間とは別の視点を提示している点で大変興味深く拝見しました。つまり、これまでの、人間を中心とした視点ではなく、客観的な視点を前提としない空間に対する総合的なアプローチの仕方ですが、このような視点の可能性について、井上さんはどのようにお考えですか。またこのような視点は、井上さんの「瞬間移動」やこれまでの作品にも一脈通じるところがあるように思うのですが、井上さんご自身の作品との関連性について、よろしければお聞かせください。


井上:
モダニズムの批評家マイケル・フリードは、ミニマルアートの作品は見る者に依存していて、見る者がいなければ不完全だと批判しました。作品の意味は作品内部の関係性の中にあって、場所や時間、見る者などから独立しているというわけです。僕自身は、作品内部の関係性を重視するほうなので、この見方に真っ向から反対するわけではありません。しかし、造形作品は歴史的にも地理的にも多様な存在様態をもっていて、一定の作品観で別な存在様態にある作品を断罪するべきではないと思います。それより気をつけておくべきは、このモダニズム的な見方に潜んでいる「本質主義」です。これは、実体の即自的な同一性を措定して、個人や作品や文化に固定的なアイデンティティがあると考える反動的な思考につながります。

スミッソンを読み直してみようと思ったのは、同じ平野区で1997年に行なった"ANOTHER WATER"というプロジェクトがきっかけです。汚染した地下水を凍らせて氷柱をつくり、それが溶けて地下に戻るのを見るというものでしたが、氷が消えて路面に汚染物質の四角い痕跡が残っているのを見たとき、僕は、はじめて「地面とは何か」ということを強く意識しました。ふつう地面があるということは当たり前で、土木関係者やランドスケープ・アーキテクト以外、一般には地面の存在は震災などのときを除いて意識されにくいですよね。

スミッソンが美術館の裏の工事現場の地面の断層を撮っている写真を見て、その地面への視線にピンと来たのです。僕は、ホワイト・キューブを作品の理想的サイトとする美術館芸術への反発からサイト・スペシフィックな活動を始めたのですが、僕の美術館批判は制度論的レベル、つまり「壁」の段階にとどまっていて、美術館の「床」を掘り返してみることまで考えてなかった。場所といっても、人間が活動する歴史的・社会的次元で捉えているだけで、地面という具体的な基盤やその下に広がる地下世界が欠けていたわけです。

ランドアートのヒーローという先入見ぬきでスミッソンを読んでみると、案の定、共鳴することが多い。例えば彼は、自分の関心は「出来事でないもの、出来事と出来事のあいだのギャップ」にあるという。また、通常の美術家とちがって、造形的な秩序へ向うベクトルではなく、逆に秩序から無秩序へ向うベクトル、虚ろで弛緩した状態に魅かれている。彼の地質学的空間への関心は、人間的な秩序や文明が地上を覆う以前、あるいはそれが消滅したあとの大地への直観とつながっていて、その想像力は惑星的と形容できるものです。
もっとも彼が画廊に並べる箱状の作品は好きではない。作品として気に入っているのは、「部分的に埋められた小屋」や「アスファルト・ランダウン」のような、どうしようもなく反形式的なものです。

スミッソンと同じような関心が自分の中にも強くあることを自覚してから、サイトの概念を人間的次元だけで考えることのせせこましさから少し解放されたような気がします。そもそも場所の特性がどうの土地の記憶がどうのと考えていると、真面目になりすぎる。芸術には誠実さは大事ですが、真面目さはあまり重要じゃない。ユーモアや荒唐無稽さが大切です。愚かさといってもいい。

だから「瞬間移動」というわけじゃありません。順序としては、「瞬間移動」をやる中で「サイト・スペシフィック」の概念を考え直す必要を感じ、あとでスミッソンを研究して自分の中にあるものをいろいろ確認したというわけです。そもそもグローバリゼーションの嵐の中で文明世界のあらゆる場所の均質化が加速する今日、多少歴史をさかのぼったところに仮構される土地の記憶や風景のアイデンティティなど、人間の欺瞞だと思いませんか。地面や大地は、その上に築かれている薄っぺらい人間世界の表皮など、身震いひとつで破壊しつくします。サイト・スペシフィシティ、場所の固有性とは、つかの間のものなのです。むしろこの人間と人間がいる場所の空虚さと儚さこそ、自分にとって芸術の起点のような気がするのです。

「瞬間移動」の大きなパネルを地元のおじいさんたちといっしょにガラガラ移動させていると、商店街のおばさんたちが、そんなゆっくりでは瞬間移動にならへんで、と笑います。じゃあ、走ったら瞬間移動になるんか、と僕はいい返します。おばあさんたちは鉛筆でしっかり絵に名前を書き込みます。楽しそうです。町のあちこちで古い家が取り壊されています。あるいはまだ工事がはじまっていない空き地。そういう場所に行って、おじいさんたちと記念撮影します。こんな地上を離れてどこか好きなところに瞬間移動しませんか。いいですか、せーの、パチリ。こんな感じでやってました。家の瓦礫の下から顔を出してる地面、それは空き地の上の空と同様、意外にも晴朗な気がしたことを覚えています。

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