『国立国際美術館月報』74(1998年11月号、p.3)所収


瞬 間 移 動

井上明彦


子供のころから、超能力に強い関心があった。超能力は、不合理ではなくて合理の極限である、などと考えて、透視や念力、また山中修験に凝ったこともある。メディアやテクノロジーに頼って、あれこれと機械装備で身辺を重たくすることなく、自己の心身の修練のみによって、万物と交信し、時空を行き来する。なんと詩的で経済的なことか。
この子供じみた原始的願望は、年とともに消えるかと思っていたら、たぶん美術に関わり続けているせいか、ほかの幼児的感覚とともに自分の中に根強くあり、それどころか最近、ある宇宙実験プロジェクトへの参加をきっかけに、またもや台頭してきた。であるから、体験型メディアアートとか称して、暗いブースに入れられたり、メカニックなスーツを装着されたりして、「新しい世界を体験できます」などと言われたりすると、よけいなお世話だという気になる。知覚の扉は、心身の状態によっては、絵を描くこと、あるいは町を歩くことだけでも開かれるではないか。

作者不詳「瞬間移動」
作者不詳「瞬間移動」
(撮影:井上明彦、1998年7月23日 杭全神社前にて)

さて、そんな私は、この夏、大阪市内の町中で開かれた美術展で、「瞬間移動」と称した愚行――作品とパフォーマンス――を実行した。そのとき、町中を文字通り移動中、古い神社の門前の横断歩道の傍らで、ふと、写真のような光景に出くわした。見た途端、背筋に電撃が走った。一足の男物のサンダルが、舗道の上に、何げなく脱ぎ揃えてある。瞬間移動? 本当に?

サンダルはゴミというにはまだほど遠く、玄関先でよく見かけるようなさりげない風情で、それゆえにその上に広がる空白は強烈だった。もちろん何かの偶然か、誰かのいたずらだとして、自分の動揺を鎮めることもできた。例の「超芸術トマソン」だとかいって、概念の引出しに回収し、笑ってすませることもできた。手術台の上のミシンとこうもり傘のような異化効果が云々…と分析することもできただろう。だが、現象というもののむき出しの力は、原因究明や解釈によって納まるものではない。オーロラの美しさは、原因の説明に吸収されない。ここはやはり、瞬間移動の現場なのだと観念して、しばしその見事な空白を味わうことにした。サンダルの配置は絶妙であった。足元に垂直の崖っぷちがぽっかり口を空けているようであった。

ありえることとありえないことのあいだに境界線を引くのは、合理主義の傲慢だ。瞬間移動は、同時性/非局地性の物理学的現象として、ありえるかもしれないのである。芸術もまた、惰性化したこの境界線を乱し、震わせるものでなければならない。そうであれば、そのサンダルの日常的にして非日常的な光景は、少なくとも私にとっては、一つの芸術モデルたりえた。さりげなく、かつ荒唐無稽であることにおいて。はかなく、鋭く、匿名であることにおいて。その空白には、私たちの生活環境である都市がかかえる根本的な貧しさとニヒリズムが凝縮されているようにも思われた。

実際、現代の都市空間で展開されているのは、ある意味では無数の瞬間移動、喪失と忘却のスペクタクルではないのか。たえざる再開発、消費経済の加速、交通網の拡充、さらに住民の高齢化や家族構造の変化を通じて、土地固有の古い景観は次々と消滅し、町のあちこちにいた職人たちも姿を消した。モニュメントは、除幕式が済むや否や人々の意識から消える。地方都市の商店街では、櫛の歯が抜け落ちるように店じまいが続き、通りの向こう側で大型店舗がまばゆい扉を開ける。先日までそこにあった民家が忽然と消え、もはやそこに何があったかすら思い出せないまま、明日には駐車場になる。この存在と不在のたえまないパサージュのあちこちに、無場所としての空き地が現われ、また消えていく。

一部の地域コミュニティで起こっている町づくり運動は、こうした喪失のスペクタクルへの抵抗たろうとしているが、地域イメージの仮構による町の観光化や博物館化は、逆にそれを粉飾することに転化してしまう。メディアの網の目がたちまち同一の情報を各地に広げ、場所性の消滅に拍車をかける。あらゆる秘境がテレビカメラを介して茶の間にさらされるように、生活世界が展示空間になっていく。今や地方に行くと、ギリシャやドイツやスペインやオランダに有料で瞬間移動できる。ユートピアを「どこでもない場所」というなら、日本の地域社会はユートピアなのである。

私はこの事態を一概に否定しているわけではないし、評論家のように口だけの批判をしたいわけでもない。なぜなら、私自身、この喪失を共有しているからだ。問題の根本は、100年以上かけて、日本人たちがこの地上にどのように生き、死んでいきたいかというヴィジョンを失ったことにある。このヴィジョンこそ住環境への意志となるはずだった。衣と食だけが肥大化して、住のイデーがないところに芸術が根づくわけがない。空虚なサンダルがそのことを語っている。

とすればやはり、本当の瞬間移動なのである。

(1998年9月23日)

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