モダニズム研究会会報

21世紀ロゴ vol.1


稲賀 繁美----“ポスト・コロニアル”の周辺
三宅 昭良----モダニスム/ファシズム/オカルティズム──三題噺のおはなし──
大平 具彦----20世紀の始まり方と終わり方──ツァラ生誕百年記念祭に参加して──
坂田 幸子----ウルトライスモに再挑戦
和田 忠彦----カルヴィーノを辿りながら
木村 榮一----ボルヘスの迷路へと
《奥野路介氏追悼》
和田 忠彦----奥野さんを偲んで
木村 榮一----奥野氏を偲ぶ

LIST ▲

MENU ▲




“ポスト・コロニアル”の周辺

稲賀 繁美

6月にパリで開催された「ポスト・コロニアリスム」をめぐる会合に飛び入りで参加した。主催者はアフリカ・オセアニア美術館館長のジャン=ユベール・マルタンとチュニジア出身の作家アブデルワハブ・メッデブ。エドゥワール・グリッサンやタハール・ベン=シェルン、モハメド・ディーブにダリューシ・シャイガン、フランス語圏の主要なアラブ、イスラーム、ペルシアの作家たちだけでなく、ガヤトラ・スピバックや美術史家でアフリカ現代美術の権威ロバート・ハリス・トンプソンといった参加者も得た、国際的な、しかしパリではごく普通の、とりたてて鳴り物入りでもない会合だった。日本からも西谷修、鵜飼哲といった有力な参加者を得たのは喜ばしくも心強いことであった。学会そのものについては別途報告するむね予定もあるのでここでは省かせていただき、この会合の背景をなすひとつの活動についていささか広告がてら、皆様のご協力をあおぐべく宣伝申し上げる。

思えばアブデルワハブ・メッデブとのつきあいはもうかれこれ5年を越える。サンチャゴ・デ・コンポステラでひらかれた相互人類学で同席したのが1991年。その前の年のユネスコの招きによるフィレンツェでの「東のしるし、西のしるし」の席にもふたりして顔を並べていたはずだが、これは互いに記憶なし。イスラエルの彫刻家ダニ・カラヴァンに言及していたことで互いに後になって互いの存在に気がついた。サンチャゴでは湾岸戦争に対する日本での反応を尋ねられて、全く無関心に等しく対岸の火事的な反応に終始していた多くの日本マスコミのあり方に鋭い疑問をつきつけられた記憶も生々しい。

その後の記憶もやや混乱している。チュニジアのハマメットで「諸宗教の対話」が組織されたのに出席したのが1993年だったか。日常の会話では話に花が咲くのに、彼の主宰する学会というとなぜか公の席での発議に失敗するという妙なジンクスのつきはじめである。その折りには、フェティ・ベンスラマと協力して企画していた『アンテル・シーニュ』への寄稿を求められたかと記憶するが、結局この会合の記録を中心とする論考は1995年に創刊された『デダル』誌1-2号にまとめて掲載された。ダリオ・アガンベン、クリステイーヌ、ビュシー・グリュクスマンといったそうそうたる寄稿者のあった特集号は「神的なるものの表象の背理」との副題を背負っていたが、これに掲載された拙「五十嵐一」論は編者を通じてサルマーン・ラシュデイ氏にも届けられ、地下生活のつづく作家はその英訳公刊も希んでいるとつたえられた(実際には英文の方を先に執筆しており、これは International Communication and Mutual Understanding としてChicago大学より出版された会議報告(1992年開催、1995年発刊)で既に活字にしていたのだが)。ちなみにいまだにイスラーム学者の間で五十嵐一という存在が白眼視されている日本では、同稿和訳要約版(『東西の思想闘争』中央公論社、小堀桂一郎編所収)も、ほとんど反応を得ていない。

1996年『デダル』3-4号は「複数のイェルサレム」という特集を組んだ。おりからイスラエルではラビン首相の暗殺とつづく総選挙におけるシモン・ペレス元首相の敗北、アメリカ合衆国ロビーの資金と政治力を背景としたナターニエフ氏の勝利、という局面をむかえていた。当初アブデルメッデブが当方に所望したのは日本人によるイェルサレム巡礼紀行の仏訳だった。だが徳富蘆花をはじめとして遠藤周作に至るまで、読み返すにつけアラブ圏住民に対する露骨なまでの人種的偏見に染まった文章しか見つからない。わずかに稲垣雄三氏の論評などが異彩を放つものの、六日戦争などあまりに年代が刻印されすぎた時事的発言の色彩が濃く、今や歴史史料としては貴重とはいえ編者の求めるところとは残念乍ら折り合わない。

そうこうしている所でふと目に留まったのが臼杵陽氏の「ハイファ・ビラング?」(『みすず』416号、1995・11月号)だった。そこにはエミール・ハビヴィといったヘブライ語で書くアラブ系の作家、逆にサミュエル・ミハイルのようにアラビア語を日常語としてイラクで育ちながらイスラエルに「追放」されて後ヘブライ語を選んだ作家、さらにはアントン・シャーマスのようにユダヤ系作家のアラビア語作品をヘブライ語に訳した後、今日では北米に離脱している作家といった、アラブ=イスラエルをめぐる言語活動の錯索を浮かびあがらせる生々しいまでのリポートがあった。日本におけるイスラエル認識もここまでとぎすまされたものになったのか、との感動のもとに話題ゆえの苦痛をも感じながら通読し、即座に仏訳を思い立った。

微力を尽くしたつもりではあるが、おぼつかぬ外国語に加えて当方の良くわきまえぬ言語の話題でもあり、いくつか意訳が誤訳をまねいた点もあって、臼杵さんには大変なご迷惑をおかけしてしまった。それでもフランスの関係者やアラビア語圏の友人のみならず、サミュエル・トリガノといったユダヤ法学者も含めて多くの人々からよい研究を訳した、といって、当方が、というよりむしろ臼杵氏の力量にすなおな賛辞のきかれたことが、何よりうれしかった。だが、『みすず』編集部に伺ったところ、そろそろ50年の歴史を誇る同誌に載った日本人の論考で横文字に訳されたのは、この臼杵氏の稿をもって嚆矢とするのだという。文化入超国日本の病理をあらためて納得させられた。そもそも小生の如き門外漢が不自由な外国語でしかない仏語に和文を訳さねばならず、しかもその内容たるやアラビア語圏とヘブライ語圏を自由に流通できる高度の知識人の知見である、というところにも、座視できぬ矛盾があるだろう。

『デダル』5-6号は「ポスト・コロニアル」。2000部売れないとメッデブ夫妻の献身的努力も水泡に帰す。日本からの執筆協力者と定期購読者の出現を心から祈る次第である。

1996年 8月5-6日  Dedale
Maisonoeuvre Larose, Paris 75006 FRANCE




モダニスム/ファシズム/オカルティズム
──三題噺のおはなし──

三宅 昭良

ここ二、三年ほど、寝てもさめても三つの言葉がまるで呪文のように頭のなかを駆けめぐっております。<モダニスム/ファシズム/オカルティズム>がそれであります。モダニティの問題を考えてゆくと、次のような構図が見えてきます。すなわち、十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、一方で科学主義、実証主義、進歩史観、ダーウィニズム、ニヒリズム、懐疑主義などが抬頭します。そしてベンヤミン風にいうならば、これらがよってたかって<生>に意味を与える<聖性>を扼殺しにかかります(どこがベンヤミン風だ?)。しかしその一方では、いわばその<意味の真空地帯>に疑似科学宗教というべきオカルティズム──それは合理性を装った反合理にほかならない──が跳梁跋扈しはじめるという構図が見えてくるのです。<モダニズム>とは、ひとつにはこの合理と反合理のあやうい均衡のうえに広がった文化現象の謂いではないでしょうか。はなしを芸術にかぎれば、モダニズム芸術の特徴として、非写実主義としての前衛性を挙げることにおそらく異存はないでしょう。少々乱暴な言い方になりますが、写実主義が三次元世界の法則にのっとる芸術だとすれば、非写実主義は、なにか別の法則、たとえば四次元の法則とか、異界の法則とかをもとにしている芸術ということになります。

国民国家が十九世紀の産物であるのは常識でしょうが、すでに同じ世紀のうちにそれは底辺を削りとられはじめていたという考えは、議論の分かれるところかもしれません。ある政治学者によれば、ヨーロッパ型国民国家がそれぞれの個別性を打ち出しながら、それでも安定した関係のなかに身を置いていられたのは、共通の文化的基盤としてキリスト教理念がヨーロッパをおおっていたからでありました。この考えが正しいとすれば、近代合理主義は十九世紀のうちにこの均衡のいしずえを扼殺したのですから、そこにもまた疑似科学宗教が入りこむ真空地帯が存在したことになります。ナショナリズムとオカルティズムが結びつけば、言論と折衝の延長にある<外交手段としての戦争>は<神と正義のための戦争>に化け、陰謀史観と民族虐殺のテーゼが轟音をたてて作動しはじめるのに、何の不思議もないわけです。かくしてモダニズムとファシズムをつなぐ鍵はオカルティズムにある、というのがここ最近の愚考であります。そしてこの三題噺の焦点にいるのが、私の研究テーマのひとつ、エズラ・パウンドという詩人であります。昨年、『現代思想』六月号にここらあたりの考えを書きましたので、興味をおもちの方はご一読ください。そのうち続編、続々編を書くつもりでおります。

いまは、一方でアメリカン・ファシズム論をまとめながら(九七年三月に人文書院から刊行される論集『ファシズムの想像力』に、ヒューイ・ロング(1893−1935)論を書きました。これをもとに本を書き下ろす予定です。)、エリオットの『荒地』の成立過程をもう一度洗い直そうとしているところです。『荒地』とその草稿については、これまでうんざりするほど多くの本が書かれてきたのですが、この長編詩をオカルティズムとの関係で読み直す作業は、これからのテーマであります。『荒地』が現在の姿で発表されたのは、パウンドが草稿に大胆な添削をほどこした結果であります。このことはよく知られた事実なのですが、パウンドがじつはオカルティストであったことが次第に明らかになりつつある今、彼の「帝王切開」も、この観点からとらえ直す必要があるのです。ひとつだけオカルティズムとの接点を挙げておきます。エリオットが『荒地』制作の最終段階において神話宗教学者ジェシー・ウェストンの『祭祀からロマンスへ』(法大出版局からひどい訳本が出ています)を援用したことは周知のことなのですが、彼女がオカルティストであったことは、長らく見落とされてきました(このことを最初に指摘したのはJohn Seniorという学者なのですが、不思議なことに今までまったく注目されませんでした)。しかしたとえば件の本の序文には、Quest Societyの頭目G.R.S. Meadへの謝辞が述べられているのです。Meadとは、ブラヴァツキー夫人の秘書を務めたことのある人物であり、当時のロンドンのオカルトがらみのゴシップにはつねに名前のあがる男だったのです。そしてなにより問題の本自体がオカルティズムの歴史解釈をもとに植物再生神話と中世騎士物語を結びつけた書なのであります。そのほかエリオットとパウンドの共通の友人にはオカルティストが多く、『荒地』をオカルティズムの文脈で読み直さねばならないことはほとんど間違いのないところです。『荒地』だけではありません。「伝統と個人の才能」や「形而上詩人たち」など、重要なエリオットの批評の基底にも、オカルティズムの歴史観が横たわっているのではないかと思うのです。それどころか、初期の詩から『荒地』へいたる詩人のヴィジョンの質にもそれは影を落としております。

とまあ、ここで断定するのは簡単なことなのですが、しかるべきかたちできちんと論述するには、膨大な一次、二次資料を調べ直さねばならず、形をなすのはまだ当分先のことになりそうです。それから、このような方向の研究が陥りやすい危険にも留意しなければなりません。オカルティズムを論じる文章には、オカルティズムの放つある種の禍々しさが付着してしまいがちです。オカルティズムの妖しい魅力と危険を匂いたつような文章で記述すること。しかし自身はその危険から自由であること。これもまた、言うは易く、おこなうに難きことのようです。しばらくはとても残酷な月日が流れるでありましょう。

Datta. Dayadhvam. Damyata.
Shantih shantih shantih  (The Waste Land ll.432-33)




20世紀の始まり方と終わり方

大平 具彦

今年1996年は、日本では宮沢賢治の生誕百年ということで、例によって一種の文化インフレの如きに、あれやこれやの行事、催し物が花盛りのようであるけれども、一方、目を西に転ずれば、かの国フランスでも今年はシュルレアリスム系列の詩人の、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラ、アントナン・アルトーの生誕百年の年であり、だがこちらの方は、筆者の情報収集がいささか疎のせいもあるのか、余り大々的なニュースは入ってはこない。

何も生誕百年などということに拘らず、20世紀の文学・芸術の代表的な星座の一つであったダダ・シュルレアリスムを、間もなく終わらんとするこの20世紀がどのように総括するのかという文脈で見るならば、ブルトンについては5年前の1991年にパリのポンピドゥー・センターで大ブルトン展が開かれ──私も訪れる機会があったが素晴らしいものだった──、そしてこの展覧会にあわせてこれまた実に見事な大冊の図録本──これはカタログの域を越えてブルトンについての総合ドキュメント集となっている──が刊行されて、ブルトンにおけるシュルレアリスムの営みの全体的俯瞰図が一応つくられた。

実はこの年、パリ滞在の後ルーマニアに行き、ツァラの生誕地であるモイネシュティという町(村)を訪れたのだが、そこで知り合ったロブチュック氏(現在モイネシュティにあるトリスタン・ツァラ協会の会長)から、私のみるところダダに関する最良の本と思われるJournnal du Mouvement Dada (Skira, 1989 )の著者のマルク・ダシーが、ブルトン展と同じようなスタイルでツァラ展を準備していることを聞いた。ダシー氏にも直接問い合わせてそのことを確認し、楽しみに待っていたのだが、いつになっても開催される様子がない。友人を介して得た情報では、資料集めの点で所有者の了解が思うように得られず、結局そのツァラ展は取り止めになったとのこと。見方によっては20世紀の文学・芸術に与えた影響ではブルトン(シュルレアリスム)よりも、よりラディカルであったと思われるツァラ(ダダ)が、なぜか前者の陰に隠れてしまう不遇な状況の一端をここにもみたような気がしたものだった。

だが生誕百年ということで、ツァラの出身国のルーマニアの方から動きがあったのだろう、パリのユネスコ本部、ルーマニアのユネスコ委員会を中心に、ツァラやダダ・シュルレアリスムの研究に関係の深いフランスのH・ベアール、M・サヌイエ、S・フォシュロー、M・ナドー、J・P・ファイユらの協力を得、ルーマニアの研究者が実際のオーガナイザーとなって、ルーマニア(ブカレスト、バカウ、モイネシュティ)を主舞台にパリそのほかの世界各地で、1996年全般にわたり、ツァラの生誕百年を祝う各種の催し、イヴェントが行われることになった。ロブチュック氏との交友を通して幸い私もこの百年記念祭への招待を受けたので、同氏によればそのメイン・イヴェントになるであろうという10月の催し(ダダ・モニュメント落成式、ツァラ・シンポジウム、雑誌『ダチア文学』ツァラ特集号刊行、詩の朗読会・コンサート)にでかけてみることにした。

参加の動機はといえば勿論ルーマニアやフランスにおいて、20世紀の新しいページを開いたツァラやダダがこの世紀の終幕時点で果たしてどのように総括されようとしているのかという点にあったのだが、一方では、あの「意味の零度」たるダダのリーダーであったツァラが、単なる百年という不条理な区切りでもって文化セレモニー化することに──それが後世の「習わし」というものであるとはいえ──何やら白けたものを感じたのも確かである。おそらくダシーのオーガナイズによる展覧会であればはるかに意味あるものとなっていただろうに、という気持ちもそこに働いていたのかもしれない。そして案内状によれば、4月から12月まで展開する記念祭の各プログラムは、マイヨール・ユネスコ事務総長およびイリエスク・ルーマニア大統領の後援のもとに開催されるとのこと。どうやらツァラはルーマニアの「国民的詩人」(おそらくツァラが最も忌避したであろうもの)として「回収」されそうな気配すらあるのだ。

さて何はともあれ、10月はじめ、一週間ほどパリ滞在の後ルーマニアに入る。催しが行われるのはモイネシュティ、およびその近くの中都市バカウである。このあたりはモルダヴィアと呼ばれ、首都ブカレストからは300Kmほどの距離。モイネシュティはカルパチア山脈の麓にあり、山脈の向こう側はドラキュラのふるさとトランシルヴァニアで、ルーマニアは第一次大戦の後ハンガリーよりこの地方一帯を割取している。トリスタン・ツァラこと本名サムエル・ローゼンストック(ドイツ語で美しくも「バラの杖(木)」の意)は、その小村モイネシュティでルーマニア系ユダヤ人として1896年4月16日に生まれた。バカウの町は5年前とほとんど変わっていない。物は前よりはいくらか豊富に出回るようになったらしいが、インフレがひどいらしく、建物も依然老朽化したままである。だが、町に活気は少し出てきたようだ。とにかくウイーンを越えると風景は一変する。社会主義とチャウシェスク体制のもとわれわれの社会はそうと知らされぬまますっかり歩みを止めていたのだと彼らは言う。

7日の晩、ホテルで記念行事参加者たちと合流。ルーマニア人が中心で、フランスからはサヌイエ氏(病気)ほか事情があって参加はなく、そのほか外国からはドイツ、スイスなどごくわずか。日本からは私だけ。ちょっと拍子抜けの気がしたが、ルーマニア人研究者がツァラをどう見ているかを知るにはかえっていいかもしれない。美術史家R・ボグダン氏、美術批評家で雑誌『20世紀』編集者G・シェルバン氏、ツァラのルーマニア時代の詩を編纂した詩人サッシャ・パナの息子のV・パナ氏、翌日落成が行われるダダ・モニュメントの制作者である彫刻家のI・グラス氏らと知り合った。グラス氏は何年か前に、あるグループ展で札幌にも滞在したことがあるという。皆人なつこい感じいい人たちである。

翌8日、先ずモイネシュティに出向いて上述のモニュメントの落成式。モイネシュティの町民、小中高の生徒(故郷が生んだ詩人を祝うため休校になったのかもしれない)、報道関係者らがかなり集まっている。外国からの客だということで私もスピーチを求められた。せっかくの機会でもあるので、この生誕百年祭について前からずっと感じていた次のようなことをしゃべった(私のフランス語をロブチュック氏がルーマニア語訳)。すなわち、このモイネシュティで100年前に生まれた詩人は、ダダ・シュルレアリスムを通じて最高の詩人であると同時に、「20世紀の詩に第4次元をもたらした」(サヌイエ氏の評)今世紀最大の詩人の一人であること、確かにツァラはルーマニアで生まれ、そして詩をフランス語で書いたけれども、彼の詩の言葉は、私が初めてツァラを読んだ時の日本語でもそうだったように、どこかの国の国語などには還元されない何か全く別の言語であったこと、だからこそ第4次元の言語と称され、まさにこうして私がここに来ているようにヨーロッパから遠く離れた国に住んでいた者の感覚をもとらえたこと、そうである限りにおいて、ツァラはルーマニアの詩人とかフランスの詩人とかの国民的詩人などではなく、もっと別の圏に向かって開かれたユニヴァーサルな詩人であること、などなど。グラス氏の創作によるダダ・モニュメントは、DADAの4文字を高さ9メートルの赤茶色の構成主義的フォルム(鉄筋コンクリート)にかたどったもの。ダダを何らかの記念碑にするというコンセプトにはいささか賛同しかねるが、そういうあらかじめの知識なしにこの巨大オブジェを見るならば(グラス氏の話ではそうした想定で制作したとのこと)、野外彫刻としてはなかなかの出来栄えである。

落成式も終わりかけたころ、おそらくこうした場面で日本人(東洋人)を見るのは初めてだったのだろう、多分ロブチュック氏の生徒と思われる小中学生(ロブチュック氏はモイネシュティのフランス語の先生)が私のところにたくさん集まってきて、フランス語で「モイネシュティへようこそ」と言っては花束をくれる。男の子も女の子もいかにも純朴そうだがでもどことなくあか抜けていてとても可愛い。特に眼がきれいに透きとおっている。そうこうするうちに誰ともなくノートの切れ端を差し出して次々とサインをせがんでくる。こんな経験は初めてなので私もすっかり感動して応じてあげる。ルーマニア人は皆親切で色々な人が温かく迎えてくれたけれども、今回の訪問では、かれら小さなモイネシュティっ子たちの歓迎が一番心に残っている。

午後はバカウに戻って、ターブル・ロンド形式のシンポジウム。参加者(20名ほどで聴衆はなし)がほとんどルーマニア人だったためルーマニア語で行われてしまい(彼らだって、楽な言語でやりたいのだ、わかる)、当方にはほとんど理解できなかった。でも話題のひとつとして、ダダという語について、ツァラの生まれた4月16日が、グレゴリオ暦とは別に現在でもルーマニア正教で使われている暦においては聖人ダダ(こんな聖人がいたなんて知らなかった)の日となっていることがその由来である、という新説が発表されていたらしい。私にはまさかと思われるが、興味をそそられた人もいたようだ。夜は場所を変えて詩の朗読会とダダ風コンサート。一般市民も結構来ていて、若い聴衆、特に女子高生などの姿が眼につく。ダダといえば、西ヨーロッパや日本では、大体は、既存のすべてのものの白紙還元を叫んだ虚無的な破壊の運動として考えられているが、ツァラの生まれた国ルーマニアでは、少し事情がちがうようだ。チャウシェスクの独裁から解放されてすべてを新しくやり直さねばという意識が社会的な底流としてあり、従来までの伝統的感性を根底から書き換えていったダダなどのアヴァンギャルドやモダニズムの運動は、彼らのそうした意識をどこかで鼓吹するらしいのである。それは若い世代であれば──情報のコントロールがきつかったチャウシェスク時代のことを考えると、彼ら若者にとってはそれらの運動ははじめて知る世界かもしれない──なおのこと強く作用するでろう。彼ら若い聴衆の中から再度来世紀のツァラやヤンコ(ルーマニア時代とチューリヒ・ダダ時代のツァラの盟友)が生まれてくることだってあり得るかもしれないのだ。その晩ラジオの放送局からインタビューを受けたけれども、放送記者からしてもかなり熱っぽくツァラやダダをルーマニア・アヴァンギャルドの再興という面から見ているふしがあって興味深く感じられた。

ツァラ生誕百年祭の10月のプログラムは以上で一通り終わったが、翌々日、ルーマニアを発つ前に、前述の美術批評家シェルバン氏、彫刻家のグラス氏と三人で、ちょうどブカレストの美術館で開催されていたマルセル・ヤンコ展にでかけた。私はヤンコは専ら画家としてばかり見ていたが、会場に行って、画家であると同時に、あるいは画家である以上に素晴らしい建築家であったことを知った。ヤンコがチューリヒから戻ってきて、30年代に設計しブカレストに建てられた主として住居建築の図面と模型と写真が展示されている。有名なリートフェルトのシュレーダー邸に通ずる(私好みの)構成主義のデザイン。ダダが造形面では構成主義と通じ合う部分がかなりあったのが改めて納得できる。なおこのヤンコ展のオーガナイザーは当のシェルバン氏とのこと、フランス経由の情報だけではなかなか知り得ない展示内容だったので、この展覧会は大きな収穫だった。やはり本国に行ってみるべきものである。

というわけで、私のツァラ生誕百年祭参加も、特にこれはといった新局面の確認があったわけでもなく、百年祭らしくなごやかな交流のうちにむしろ坦々と過ぎていったが、やはりそれなりの感慨があったので、それを少し記しておこう。

一つは、20世紀の終幕ということである。20世紀が第一次大戦とともに本格的に開幕したとすれば、その大戦のさなか、いわばその戦争の落とし子として生まれたダダもまた20世紀的な詩とアートの出発点だった。その20世紀がゆっくりと暮れてゆく。同じく第一次大戦のさなかに起きたロシア革命を起点とする社会主義体制の無惨な崩壊とともに。その崩壊を最も過酷に経験した(そして今もなお経験しつつある)ルーマニアで、そのロシア革命の異母兄弟のようなダダを生んだ、ツァラという詩人の生誕百年を坦々と祝いながら。新しいページを切り開くような目立った流れも目下はなく、かといって世紀末的な頽廃などに浸れる余力もなく、専ら内向と混迷を深めつつ。

もう一つは、だが20世紀の詩とアートが提起したあの表象の根本的変容の問題は一体どこに拡散してしまったのだろう、という思いである。ロシア革命以後の社会主義体制は新しい人間社会をつくり出すどころか、人間の生活そのものにほとんど何らの新次元ももたらさなかった。むしろ有能な人間を精神的に鎮圧し、肉体的に圧殺しただけである。20世紀のキーワードは、とどのつまり、キュビスムと社会主義と核兵器ではないかと私は考えているが、キュビスムから始まる視覚と言語における表象の変革の巨大な流れこそは、それまでの人間の思考と感覚を塗り替えてゆくものだった。ランボーが今世紀の詩人や画家に先立って、"Ilfaut etre absolument moderne"(「断じてモデルヌであらねばならぬ」)と書き記したとき、それは、「与えられたものとは別のものをつくりだすこと」の謂であったはずだ。だがその表象の変革の運動は、60年代あたりを境に、どこか「未完」という感じを濃く漂わせながらも表舞台からはゆっくりと消えてゆく。ある傾向の技法の集大成、あるいはアカデミシャンたちの格好の研究対象なる、「モダニズム」という名を殻として残しつつ。(目下その「未完」を受け継いで何か「別のもの」をつくりだそうとしているのは荒川修作ぐらいである。)確証はないが、この「未完」あるいは衰退はもう一方の社会革命の変質、頓挫とどこかで連動しているだろう。そんなことをすっかり忘れ去り、それに代わって何か埋もれていたものを新しく掘り起こしてきたようなふれ込みでもって、印象派や象徴派風の絵画が今またリバイバルしている。荒川修作の言葉を借りるならば、「なぜ歴史はこうも緩慢」なのだろう。

現代フランスの最も優れた詩人の一人であるロワイエ=ジュルヌーによると、「モデルニテが明らかにしたのは、われわれは書物を未完にするほかはないということ」だそうである。書物とは畢竟はわれわれのことであるとしよう。そして未完とは箱はいつも開かれ得るということであるとしよう。完成への中途段階としての未完ではなく果てしなき途上としての未完。ツァラだってブルトンだって忘れ去られていいのだ。もし新しいことがやり直されてゆくのであるならば──。

いやそもそもがダダの戦略とかツァラの言語思想とはそうした途上性への開口部たらんとすることではなかったか。自分の思い入れに引きつけてそんなことを考えながら、何か拡張工事をやっているようだが依然さびれた状態のままのブカレスト空港を後にした。

後記 帰国する間際になって、ルーマニアユネスコ委員会のツァラ生誕百年祭の担当者から、11月14日にツァラ展のヴェルニッサージュとツァラの夕べが今度はパリのユネスコ本部で開催されるので参加しないかと誘われた(いつでも直前になって事を知らされるのだ、この国は)。気持ちがかなりそそられたが、時間的に都合がつかないことと、ツァラ展の内容が今ひとつよくわからなかったので、不参加の旨の返事を出した。知人に当日の様子を見に行ってもらい、パンフレットや会場の写真を送ってもらったが、案の定ルーマニア側からだけのオーガナイズで、見たところ準備もよくなく、中身もいささかわびしかった。ツァラはやはりフランスには根づかないようである。




ウルトライスモに再挑戦

坂田 幸子

モダニズム研究会ではお世話になりました。昨年(1995年)4月にようやく専任が決まり、現在、慶應大学文学部にスペイン語の教員として勤務しています。こうして専任のポストが見つかったのも、モダニズム研究会で勉強し、論文を発表する場を与えていただいたおかげと思い、浜田先生をはじめ、仲間に入れて下さった研究会のメンバーの皆様に感謝いたしております。勤めはじめて二年目となり、だんだん慣れてまいりました。有難いことに、学内の知人や友人も増え、「飲みにいこう」とか、「美味しいもの食べにいこう」と声のかかることも多くなり、しかしながら有難くないことには、それと同時に、というか、それをはるかにしのぐ勢いで、雑用も増えてしまい、要領の悪い私に はつらいところです。

さて学業の方ですが、昨年一年は教員と名古屋大学仏文の大学院生の二足のわらじを履いておりましたが、今年3月に満期退学で博士課程を修了しました。これでよしとしておけばよいものを、どこでどう魔がさしたものか、ここまできたのならもうひとふんばりしてしまえ、という気分になり、無謀にも課程博士の学位論文を書くことにしてしまったのです。テーマは『テオフィル・ゴーチエにおけるスペイン趣味の受容の諸側面』。ゴーチエのスペイン旅行記を手に居眠りしながら、夢はカスティーリャ地方の荒野をさまよっております。このようなわけで目下のところは学位論文に時間をとられているのですが、長期的には、モダニズム研究会で取り組んだテーマのウルトライスモにじっくり取り組んでいきたいと思っています(二兎を追う者はなんとやら、と言いますが、私の場合、この諺の典型的なパターンにはまりそうな、嫌な予感・・・)。

まずはこれから10年ぐらいかけて、ウルトライスモの起こった1919年頃から、ロルカに代表されるような1927年の詩人グループが生まれるまでのスペイン詩の流れを自分なりに整理して、詩人たちが、言語というものを、あるいは伝統と自分たちのかかわりを、あるいはまた社会の中での自分たちの位置をどう考えていたのかを調べたいのです。とりあえずはウルトライスモの歴史を詳しく検証してみようと思って、勤務先の紀要に「ウルトライスモ小史の試み」と題した続きものの第一回を書きました。さてここで懺悔しなくてはならないのですが、いろいろ調べてみると、『モダニズム研究』に書いた内容には、ひとつふたつ事実誤認があるみたいです。ごめんなさい。ウルトライスモ関係の資料となる当時の雑誌などの中には、マドリードの国立図書館の書庫で、埃をかぶって眠りについているものがたくさんあります。それらの資料を眠りから叩き起こして紹介するだけでも、少しは意味があるかもしれない、と思い、みずからの内容希薄な論文の慰めとしています。それでは皆様、これからもよろしくお願い申し上げます。




カルヴィーノを辿りながら

和田 忠彦

いま自分が置かれている状況では、大上段にテーマを振りかざして数年かけてまとめる作業など、およそ不可能と見極めてから四年余が経つ。せめて少しずつ選びながら仕事を引き受けこなしていくことで、ちいさな断片の集積が、数年後に幾つかのテーマに収斂していたと振り返ることができればと願いながら、翻訳・批評・エッセイと格闘している。

そんななかで徐々に形を成しつつあると感じているものに、イタロ・カルヴィーノの語り口の変遷をめぐる考察と、戦後の作家・詩人たちと都市の関係をめぐる考察とがある。

前者は、もっぱら翻訳のあとがきや文芸誌のためのエッセイとして発表してきたものだが、そこに今夏から来春にかけて刊行が予定されている三冊の訳書のあとがきを加えると、どうやら作家カルヴィーノの四〇年足らずの軌跡を、その語り口の変化に重ね合わせながらたどる作業が一段落するのではないかという気がする。ただ四年ほど前から、カルヴィーノと他の作家たちとの関係、とりわけ『見えない都市』(七二年)の影響を蒙ったイタリア語圏以外の作家たちと八〇年代半ばまでの世界文学の状況と展開について調べているうちに、そのひろがりが当初の予想をはるかに超えて大きなものであることに気づいて、いまではカルヴィーノをモノグラフィーの対象として扱ってしまうことに対する躊躇いが頭をもたげてきたことも事実だ。けれどいずれにしても、大きなテーマを力でねじ伏せるほどの力量もなければ蓄積もない以上、たとえ貧相でも自分なりの中間決算書は出しておくべきだろうと考えることにして、ほのかに見える通過地点めざしているというのが実状だろう。

実のところ後者も、ある意味ではカルヴィーノをその起点にもつ作業なのだが、この場合、カルヴィーノは作家としてだけでなく生身の人間として(というよりむしろ両者渾然とした存在として)、作業の中核に位置している。はじめて直接言葉を交わしたイタリア語作家としてカルヴィーノがぼくの目の前にあらわれなければ経験することのなかったはずの、作家や詩人たちとの出会いを、かれらが暮らす街やかれらが描いた街の風景のなかで回想することにこだわってきたのは、不遜を承知で言えば、戦後作家論としてよりは、「イタリア」v.s.「西欧」という対項図式に拘束されつづけたイタリア近代化の軌跡を、戦後文学の風景を介して、その遠近法の射程におさめられるのではと考えているからだ。この作業は、春からはじまる二年間の連載エッセイを中心に、これまでに発表した数篇を加えて完成に漕ぎ着けるつもりでいる。と、こんな具合に臆面もなく自分の計画を披露する気にさせてしまうのが、たぶんモダニズム研究会の雰囲気なのだろう──そう勝手な解釈をお許しいただくことで、「モダニズム」とは一見なんの接点ももたない仕事をつづけている自分をモダニズム研究会につなぎとめておきたいと思う。




ボルヘスの迷路へと

木村 榮一

これまでひたすら前を見つめてアタフタ、バタバタ走ってきたが、近頃疲れがでたのか、足もとがおぼつかなくなってヨロヨロ、オタオタしはじめた。老化のせいにちがいない。何よりも足腰が弱りはじめたのだ。といっても、今さら一から鍛え直す訳にもゆかないので、まず仕事のペースを変えて、自分の体力にあった速度で歩くか、走るしかない。それにあれも、これもと欲張って手を出すのも億劫なので、テーマを絞り込んでゆこうと考えている。

ラテンアメリカの現代文学でいちばん好きで、しかも気になる作家といえば、僕の場合はまずホルヘ・ルイス・ボルヘス、オクタビオ・パスそれにフリオ・コルタサルの三人が挙げられるが、今はその中のボルヘスの作品を中心にみてゆくつもりでいる。<ラテンアメリカ文学のブーム>という特異な現象はおそらくマヌエル・プイグの死のあたりで終わったと考えられる。その後まだ残り火が続いているが、もうブームそのものは過去のものになったと考えてもいいだろう。以前に比べると、話題作といえるような作品は数えるほどになり、寂しい限りだが、どういう訳かボルヘスだけは死後も次々に評伝や研究書が出版されていて、今も根強い人気があることをうかがわせる。ボルヘスの作品はその博識と特異な発想、それに含蓄に富んだ、多義的な文体が魅力で、今なお多くの読者、研究者を惑わせ、酔わせ、その迷路へと引き込んでゆくのだろうが、それなら僕もひとつ迷ってみるかと思っている。一見衒学的と思われるようなそのめくるめくような博識の背後に、ボルヘスの本質というべきものが隠されているはずなのだが、とても一筋縄でゆくような相手ではなく、テキストを開いてはため息ばかりついている。ただ、晩年の講演集『ボルヘス・オラル』にでてくる「時間の問題とは、われわれ自身に深く関わっている問題である。私とはなにものなのか?

われわれのひとりひとりはなにものなのか?

われわれとはなにものなのか?

それが明らかになる時がいつか来るだろう。いや、ひょっとすると来ないかもしれない。しかしその間も、聖アウグスティヌスが言ったように、わたしの魂はそれを知りたいと思って熱く燃えているのである」という一文からもうかがえるように、彼にとって時間とそれに深く関わっている人間がきわめて重要なテーマであったことはまちがいない。連続する通常の時間、その連続が否定されるときに永遠が顔をのぞかせる。連続は同一の出来事がただの一度でも起これば否定されることになる。たとえば、庭に鶯が訪れてくるとする。その鶯は百年前の鶯と同一ではないと言いきれるだろうか。種としての鶯を考えるとき、その言葉は簡単に否定しきれないものをはらんでいる。われわれは個体と種とを無意識の内に区別しているが、人間もまた種ではないか。とすれば、種としての人間と個としての人間をどこで区別するのか、エトセトラ、エトセトラ・・・・・・かくして、またしてもボルヘスの作り上げた迷路の中に踏み迷うことになる。で、僕はいったいいつそこから出られるのだろう。




《奥野路介氏追悼 》


昨年末、メンバーの一人であった奥野路介(勝久)氏が亡くなられた。氏のご冥福を心よりお祈りしたい。氏とつながりの深かった和田忠彦、木村榮一両氏より、哀悼の言葉をいただいた。

奥野さんを偲んで

和田 忠彦

九六年一二月二〇日、ようやく時間をみつけて久しぶりに名古屋で開かれている友人の展覧会をのぞきに出かけ帰宅したのは夜の一〇時頃だっただろうか。奥野さん他界を報せる電話やファックスが各所から入っていた。秋口から奈良西大寺近くにある病院に、肝臓病治療のため入院していた奥野さんがその日一六時一二分息を引き取ったことを、折り返しかけた電話口のむこうで口々に告げる友人たちの声を聞きながら、ぼくは、十月の初めに見舞いに伺って、最後に出会ったときのことを思い出していた。

丘の斜面に点在する病棟の、いちばん奥まった棟の二階にある六人部屋の一室で、点滴を受けていた奥野さんの様変わりした様子を見て、ぼくばかりでなく、連れの友人たちも一瞬ことばを失った。全身に黄疸症状が出て、頭髪は脱色したような銀髪になっていたからだ。折々に見舞いに行ってきた同僚や友人たちから、あらかじめ様子は聞かされていたが、実際その変わり様を目の当たりにすると、ただただ狼狽えるしかなかった。奥野さん本人は、パジャマ姿で点滴スタンドを引きながら人に会うのが照れくさいらしく、しきりと「格好悪いな」と繰り返しながら、ユンガーの翻訳のことや来年度の授業のことなど、退院してからの計画について、あれこれ話していた。しばらくして点滴が終わると、ちょっと散歩しようや、と言って、向かいの棟にある喫茶室にぼくらを誘って、先に立って歩き出した。足取りはおぼつかなくて休み休みだったけれど、ともかくも歩きながら、とても楽しそうに医者や看護婦、それに大学の同僚たちを次つぎ俎上にのせて寸評を加える様子は普段と変わらなかった。喫茶室の外にあるテーブルを囲んで話に花を咲かせているあいだも、いつものドスの利いた声こそ聞かれなかったけれど、すこし上目遣いにみんなの顔を交互にみつめながら、時折はにかんだような笑みを浮かべて、もっぱら自分が話の主導権を取ることで座を盛り上げようとする、奥野さん一流の気の遣い方はいつものままだった。病院の早い夕食がはじまる頃合いをみて、ぼくらが引き揚げようとすると、「もうちょっとええやんか」と駄々をこねるように別れを惜しんでくれたのだが、それ以上奥野さんと向き合っている気力は誰にも残っていなかった。たぶんみんな、あのとき、奥野さんを待ち受けている出来事を見てしまったのだろう。タクシーに乗り込んだぼくらを見送る奥野さんのすがたが坂道の上で見えなくなるより先に、ぼくらは振り返るのを止めた。背後で奥野さんがどんな表情をして見送っているかが手に取るように分かったからだ。

十一月の終わり、奥野さんが退院したことを聞いた。それから間もなく、またお酒を呑みながら、あちこち電話をかけていたらしい。けれど一昨年、ある出来事があって、長い付き合いを通じてはじめて厳しく叱責したぼくのもとには、ついに電話はかかってこなかった。

生駒の寺でいとなまれた寂しい通夜のあいだ、最後まで居残った数人の仲間たちといっしょに、左手を頬に当てた若やいだやさしい面持ちの遺影をながめていたら、お酒でなければ寂しさはまぎらわせなかったの、奥野さん、もっとやりたいことがあるって言ってたじゃないの、と無性に腹立たしさと悲しさがこみ上げてきて、もっともっと本気で叱っておかなかったことが悔やまれてならなかった。モダニズム研究会のあと、ファシズム文化研究会でもいっしょだったのだが、今にして思えば、奥野さんの最後の数年間のなかでもっとも元気だったのは、ちょうどモダニズム研究会が合宿を重ねていた時期だった。豪放磊落にみえて照れ屋で気の小さい奥野さんの人柄をしめす場面は、この研究会の仲間なら、いくらでも思い浮かぶはずだ。それは奥野さん自身がこの研究会を心底楽しんでいたからでもあるだろう。

合掌




奥野氏を偲ぶ

木村 榮一

奥野勝久氏とは十数年同じ大学に勤務していたが、出講日が違っていたこともあって、教授会の時にたまに顔を合わせて立ち話をしるくらいで、ふだんはほとんど会う機会がなかった。ただ、忘年会や歓送迎会などで同席し、酒を酌み交わす機会があると、ドイツの文学、思想を中心にいろいろと興味深い話を聞かせてもらったのをよく覚えている。文学と思想に対する情熱と思い入れは人一倍強いものがあり、それが言葉の端々にうかがえて、彼の話は聞いていてまことに楽しかった。文学研究者ならだれしも感じていることだが、彼もやはり自分の思索と感情をいかに矛盾なくひとつに溶け合わせて表現するかで苦闘していたようで、そのことは彼の言葉からもよくうかがえた。野武士然とした風貌、野ぶとい声、一見豪放磊落にみえる性格、そういった表面的な外見とは裏腹に、彼の中には多感でひたむきな、しかも傷つきやすくて繊細な少年がひとり棲みついていたようで、その少年が話の最中に時折ちらりと顔をのぞかせ、はっとすることがあった。

晩年、彼が病を得てから二度ばかり見舞いにいったことがあるが、その時にユンガーの翻訳の話を熱っぽく語っていたのを今でもはっきりと覚えている。難解なことで知られる著作だとかで、その翻訳と苦闘しているところだとのことだった。翻訳を仕上げることなく他界したのが何としても惜しまれるが、生きるということが形として現れた結果ではなく、そのプロセスであるとすれば、彼はよく生き、よく戦ったといえるだろう。早すぎる死が彼から多くのものを奪い取ってしまったが、彼が生き、戦った過程そのものは友人や仲間の記憶に今も鮮明に残っており、その限りにおいて彼は生き続けているといっても過言ではない。

十二月下旬の穏やかな小春日和の日に、奈良県の生駒市にある小さなお寺で奥野氏の葬儀が営まれた。彼の人柄、とりわけ彼の内に棲みついていた少年を愛した友人、仲間、同僚が大勢参列していたが、中の一人がぽつりと「いい日和ですね」と呟いたが、その人もきっと奥野氏の心の中に棲みついていたあの少年を愛していたにちがいない。

合掌



LIST ▲

MENU ▲