モダニズム研究会会報

21世紀ロゴ vol.3


《記》
村田 靖子----石の町・石の壁・石の心
五十殿 利治----ウラジオストック瞥見――ロシア・アヴァンギャルドと極東
稲賀 繁美----この夏も国際学会というものを
《研究会発表要旨》
村田  宏----ヴィフレド・ラム《ベリアル、蠅の王》(1948)についての一試論
――東と西の歴史の間に花ひらいた芸術――
西  成彦----20世紀文学とディアスポラ――声の越境
亀山 郁夫----恐怖という詩神――マンデリシタームのスターリン頌歌
《プロジェクト試案》
西  成彦----プロジェクト(案)
(A)20世紀文学とディアスポラ
(B)独裁者と文学(芸術)
(C)モダニズムとナショナリズムの共犯性
大平 具彦
----(プロジェクトについての一試案)
「言語映像と視覚映像(および聴覚映像)のあいだ」
三宅 昭良----不眠症芸術のための覚え(忘れ?)書き
科研費申請時のコメント

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石の町・石の壁・石の心

村田 靖子

エルサレムという都市が喚起する印象は多様で、鮮烈である。なんといっても人間が多様で、目が眩むばかりだが、太古の昔からこの町の人間と深いかかわりをもつ石についての印象をいくつか書いてみたい。

こんな小話がある。

ある旅人がエルサレムにきて、どこを向いても石、石、石で驚きいった。家も道路も塀もすべてが石造り。町を出て、近くの丘にのぼり、そこから眺めやると、これまた石ばかりの景色。町にもどって、ある老人に「なぜエルサレムにはこれほどたくさん石があるのか」ときくと、老人答えていわく――「それはな、大昔からユダヤ人がやってきて、西の壁の前で祈り、嘆き悲しんだ。そうして流されたひと粒ひと粒の涙が石となって落ちたからじゃ」。

これは、ヘブライ語の「心から石が落ちる」(ほっとする)という言い回しについての小話しだが、とにかくエルサレムは石の町である。19世紀に8日間聖地エルサレムに滞在したメルヴィルも、石の風景に圧倒され、「右も左も石、石、石。・・・石の墓。石の丘。石の心」とこの衝撃的な印象について日記に記している。日本文化にたいしてヨーロッパ文化を石の文化とよぶが、その比ではない。岩と石と砂の砂漠、聖書でいう「荒野」がすぐそばまできているエルサレムは、石で防備を固めた砦の感がある。日没になると門を閉じる城壁に囲まれた旧市街だけだった19世紀末までは、この石の町にむかう者は畏怖の念を抱いたに違いない。

市の条例で建物はすべてエルサレム石をつかわなければならないことになっている。茶灰色、白っぽいもの、ピンクがかったものと三種類ある。ボルヘスがエルサレムを訪れたとき、手で建物に触りながら歩いて、その感触から石の色がピンクがかっているのをあてたという話しもある。建物も壁も、すべてこのエルサレム石。旧市街を囲む城壁を見上げるとき、いつも思う。何千年もの歳月をへてきた城壁は──というのは少々オーバーで、去年エルサレムは怒るパレスチナ人を尻目に、建都3000年祭というものをやっていたが、城壁はたびかさなる戦いやら、自然の威力で破壊され、何度も崩れたり、補強されたりして、現在ある城壁は16世紀、オスマントルコのスルタン、スレイマン壮麗王の命のもと再建されたものだが──たった10年、20年で惨めに汚らしくなるコンクリートの建物や壁にくらべ、なんと生き生きしていることだろう。石は歳をふるにつれ、威厳をまし、色も相貌も磨きがかかる。

1917年、イギリス軍がエルサレムをオスマントルコの長い圧制から解いたとき、アレンビー将軍が通ったヤッフォ門から旧市街に入ると、アラブ人の店がぎっしりならぶバザール。そこでは人種も言語も宗教も多種多様に入り乱れる。といっても、1987年にインティファーダがはじまってから、西エルサレムに住むほとんどのユダヤ人は旧市街に足を踏み入れない。殺されるのが恐いという。当時の緊張は緩和したものの、宗教的でないユダヤ人は、旧市街に行かない。「以前は旧市街の市場で買い物してたのに、残念なことだ」と嘆くユダヤ人の友人も多い。

だから、現在のエルサレム旧市街で見かけるユダヤ人は、観光客か、正統派ユダヤ人。かれらはまっすぐ「西の壁」へとむかう。俗にいう「嘆きの壁」だ。だだっ広い石の広場の端に聳えるのは、ただの石の壁。かつてここに立っていたユダヤ王国の神殿の唯一の名残りである西の壁――正確にいうと、神殿の一部でもなく、神殿が立っていた「神殿の丘」という人工的に盛り土して造成した広い高台を支える西側の擁壁の一部でしかない。ユダヤ王国の栄華を偲ぶものはこれしかない。古代から各地に離散したユダヤ人たちは、ここにきて神殿の破壊(フルバン)を嘆いてきた。

いちばん下の層をなすヘロデ王時代の巨石から、時代をふるにつれて補強、再建につかってきた石のサイズが小ぶりになる。が、いずれにせよ、ここには何ひとつ特別なものはない。あるのは高々と聳える石の壁のみ。ところどころ、石と石のあいだから埃っぽい緑色のケッパーが生えているだけだ。徹底して偶像崇拝をきらうユダヤ教にはイコン、マリア像、仏像のたぐいはいっさいない。あるのはこの石の壁と、かつて壮麗なる神殿が立ち、今は「岩のドーム」と「アル・アクサ・モスク」だけしかないイスラム教徒の聖地「神殿の丘」の、至福のひとときを味わわせてくれる広々した空間のみ。

「アヴ月の9日」の夜、この石の壁の前の広場はユダヤ人でうまる。神殿破壊を嘆く日。イスラエルに住む者、世界中からやってきた者、とにかく石の壁のまえはユダヤ教徒でぎっしり。正統派、超正統派、改革派・・・さらに出身国によって細かい分派がある。集団をなして、ひとりで、あのユダヤ教徒独特の前後に身体を揺する祈り方で、しだいに恍惚境へと入ってゆく黒い装束のユダヤ教徒たちを見て、この人たちの存在の根が「記憶」――それも神殿破壊というはるか昔の出来事をけっして忘れまいという、凄まじくもしつこい「記憶」にあることを実感させられる。この執拗さなくして、ユダヤ人がユダヤ人としてのアイデンティティーを、これだけ長い歳月、離散の地でたもつことはできなかっただろう、というのもよくわかる。

が、そこにひそむ危険にも否応なく気づかされる。

そもそも、この「西の壁」前の広々した広場があった所にはアラブ人の家がひしめくように建っていた。六日戦争で旧市街をふくむ東エルサレムを占領したイスラエル政府が、大挙してやってくるであろうユダヤ人たちのために祈りの場所をつくる目的で、そこに住むアラブ人たちにたった3、4時間の猶予しか与えずに立ち退き命令を下し、ブルドーザーであっというまに更地にしてしまったのだ。こうして追い出されたアラブ人たちは、パレスチナ人となり、過去何千年ものあいだユダヤ人の宿命だった離散の民となった。かくして、ここに重大な立場の逆転がおきたのだ。

「西の壁」の広場に立つたびに、どうしても、この事実を思い起こさざるをえない。なぜ、と問うても、人間の歴史とはそういうものなのだ、という冷ややかな答えがわたしの胸をよぎるだけ。イスラエルという人類史上はじめての「実験」、つまり離散の民に国土をあたえるという企ては、人類にとっての輝かしいユートピアの実験となるはずのものであった。だが、歴史は理念・理想への裏切りの連続。イスラエルも例外ではない。

エルサレムは多種多様な宗教、人種、言語が混在する都市だと書いた。ここは聖書が書かれた大昔から、そうした国際都市だった。エジプトという大文明国とチグリス・ユーフラテス川流域の大文明の間にはさまれた恰好のパレスチナの地は、大文明どうしの、大国どうしの衝突の舞台であると同時に、さまざまな人間が行き交う交差の場でもあった。人種が入り乱れ、文化が入り乱れるのが当たり前の土地だった。多言語、多人種、多宗教が混在すれば、人類史上まれに見るクレオールの状況が生まれるのではと思うが、これがエルサレムではおきない。

公益事業のバスも電気も、アラブ人のものとユダヤ人のと、きちんと二通りある。

エルサレムでは、多種多様なものや人間が、ただ勝手にバラバラに同居しているだけで、部分が集まってひとつの図をつくるモザイクにもならない。頑ななまでに自分のあり方を崩さないものが同居する場。日本の文化がすべてを「さらりと水に流す」のと正反対に、イスラエル、とくにエルサレムはてこでも動かない堅牢な石の心をもった者たちが居をかまえているところなのか。過去3000年の歴史が物語るように、エルサレム(イール=町、シャローム=平和)はいっこうに融和へとはむかわない。




ウラジオストック瞥見・ロシア・アヴァンギャルドと極東

五十殿 利治

最近、原暉之氏の『ウラジオストック物語』が上梓された。浩瀚な『シベリア出兵』の副産物といえようが、類書もなく、ちょうど同地へ調査へ出ようという矢先の出版であったので、格好の便覧として、さっそく入手した。

ウラジオストックにわずかなりとも関心を抱いたのは、10年ほど前、同地を経由して1920年に来日したロシア未来派のブルリュークの研究から、ある程度のまとまった美術家グループの所在が確認できたからであった。とはいえ、実際には大して調査をしないまま時間が経った。

その後、この関心を大きく膨らませる出来事があった。1990年か91年の初冬と記憶するが、ウラジオストックの沿海州絵画館学芸員のキーロワさんと出会った。夫が筑波の高エネルギー研究所に研究員として来日したので、キーロワさんもひとり息子と同道してきたのである。幸い筑波大の狩野先生が紹介の労をとってくださり、ある日高エネ研の宿舎を訪ねた。そこで幾杯も紅茶をごちそうになりながら、おそらく200枚近い、数多くの美術館所蔵品のスライドを見て、一驚した。まるで予想もしなかった極東の活発な美術活動への無知を改めて悟らされたのであった。

いうまでもなく革命と国内戦は大きな混乱を極東にもたらした。シベリア出兵は痛ましい歴史そのものであるが、美術という面では、混乱が西からの美術家と美術品の流入とその一部の東への流出による極東美術界の活性化につながった。むろん、それはブルリュークやパリモフなど、ロシア・アヴァンギャルドに対応するようなラディカルな美術だけに限定されないことだが、極東の美術史においては活況といっていいのである。ここで美術の分野ではないが、マヤコフスキーが中心となって出版された『コンミューンの芸術』誌で「コム=フト」(共産主義=未来主義)を主張したチュジャク、あるいはメイエルホリドが上演した「逆立つ大地」を書いたセルゲイ・トレチャコフがチタを拠点にして活動していた事実を思い起こすだけで充分であろう。

キーロワさんの宿舎を辞すとき、夫妻はぜひともウラジオストックに訪ねるように勧めてくれた。もっとも、当時はまだ軍港ゆえに閉ざされており、行きたくても行けなかっただろうが、以来、私にとってはいつか調査に訪れたい土地となった。

そんな夢がようやく実現することとなったが、その前にもうひとつ幸運な出会いがあった。今年4月モスクワでブブノワ姉妹を称える国際シンポジウムがロシア科学アカデミーのアジア研究所において催され、ワルワーラ・ブブノワの版画について発表を行ったのだが、その際発表者のひとり、北海道地域研究所の荒井信雄さんと知り合い、極東地域についていろいろ教示をいただいた。このことが調査に弾みをつけることになった。とくにウラジストックの極東大学のゾヤ・モルグーン教授を紹介されたことが、短期間の調査にもかかわらず、大きな収穫を得ることにつながった。

さて、調査であるが、神奈川県立近代美術館の水沢勉氏、町田市立国際版画美術館の滝沢恭司氏と3人で、ハバロフスクとウラジオストックを訪れた。水沢氏とは長年にわたり大正期から昭和初年にかけての美術作品について折に触れて調査をともにし、この夏には氏が企画した「モボモガ展」の関連事業としてシドニー大学主催で開かれた日本のモダニズムをめぐる国際シンポジウムにも参加した。また、滝沢氏とはブブノワ展以来のつきあいである。何分、それぞれ忙しいので、1週間ほどしか調査期間がとれなかった。10月9日、快晴の新潟を飛び立った。

ハバロフスクには戦災を避けてウラジオストックの文書資料が移されたとキーロワさんに教えられたので、図書館での調査を目標とした。実際には、極東美術館での調査の方が実りが多かった。とくに「緑の猫」というグループに着目した。美術館には同グループが出した版画集があり、一同そろって感嘆の声をあげた。とくに、やがてウラジオストックに移って活動するリュバルスキーの作品が注目された。

夜行で到着したウラジオストックは静かなハバロフスクとは対照的な、活気あふれた街であり、日本車がところせましと走っていた。駅舎は古い建物をドイツの援助で修築したばかりで、アール・ヌーヴォー風の内装で美しい姿を取り戻していた。レストランの壁画も修復されていた。

調査はその朝から本格化した。モルグーン教授のアレンジで研究者に出会い、教えを乞い、そして町中を案内された。当時の建物がいまだ使われていた。ブルリュークが挑発的な行為を行ったキャバレ「ビバボ」はいまは映画館であったし、また同じくキャバレ「バラガンチック」があった建物もそのまま残っている。いずれも、市内の目抜き通り、スヴェトランスカヤに面している。さらにブルリュークが展覧会を催した建物は子供のための療養施設となっている。という具合である。

5月から給料が出ていないと館長が嘆いたが、しかし、我々を精いっぱいもてなしてくれた沿海州絵画館における収穫も予想以上であった。前述のリュバルスキーの作品も多数あり、さらにプロパガンダ芸術に従事したヴィジンが興味深い作家であると3人の意見が一致した。研究用に写真撮影も許可されたので、写真掲載はできないものの、調査成果をいずれ発表できるであろう。

ウラジオストックで驚かされたことのひとつは、歴史資料館の閲覧室の光景であった。モルグーン教授の伝で、我々も入場を許されて、ロシア語版の浦塩日報を見たのだが、すでに朝10時半には満席状態であった。なかには、いかにもアメリカ人らしいTシャツ姿の若者がラップトップのキイをひたすら叩いている。思わず目を疑う光景であった。その日の夕、モルグーン教授と彼女の長男を招待して、ウラジオストックで人気のレストランで夕食をとったが、気が付くと、右となりの女性二人も、そして左となりの男女二人も英語で会話しているのであった。

10月15日、帰国の途につき、大雨の新潟に帰着した。再開を楽しみにしていたキーロワさんはガン治療のため渡米しており、我々の調査に合わせて帰国することを楽しみにしていたが、都合がつかなかったという。次回を期したいが、調査ではウラジオストックよりもチタへ行くことの方が先ではないかと思う。




この夏も国際学会というものを

稲賀 繁美

この夏も国際学会というものを三つ梯子して、ただ今ニュー・ヨークで頭脳の入浴をしている。ちなみに関西の銭湯だかトルコ風呂だかで屋上に自由の女神像の立ったのが、かつて乱立したが、その心は入浴、なのだそうですね。などと惚けていたところヘ、丁寧にも、モダニズム研究会の通知が送られてきた。考えてみると、参加した国際学会、いずれもモダニズム研究と密接な関係がある。というわけで、以下投稿申し上げる次第。

第一件目は、プラハ、題してChinese Modernism: New Perspectives on Chinese Culture in the 1910s (August 23-27, Charles University, Prague)。そういえば、今回のメンバーを見ても、またしても韓国も中国も陰が薄いし、イスラーム・アラブ関係は奴田原先生がおられるけれど、南アジアも東南アジアも空白なのはどうしたことか(存じ上げないかたでご専門の方がおられたら失礼)。文学や文化関係の中国近代研究に関して、欧米の学会でも活躍している人物というと、藤井省三氏の名だけは何度か耳にしたが、プラハの学会の参加者たちは、ほかには日本には知人もない、という。そんなわけで専門家でもなんでもない小生のごときがひっぱりだされることになる。かつて京都大学人文科学研究所に留学して、なんと最初の東方学会での学会報告では、コメンテーターが吉川幸次郎だったが、当時はそんなに偉い先生だということも知らなかった、といった事情通の、現在では学会誌編集長もいたのだが、人文研からは参加者なし。思えば日本のシナ学者の姿はあまり見ない(ような気がする)北米のAAS(アジア研究協会)などでも、もとより中国、韓国、日本は区分が別で、相互の流通などあまりないし、本国との交流も薄いのが実態だ。おまけに大陸中国の学者たちも、日本語遣いは英語圏の学会には来ないし、英語遣いは日本には来ない。そんな事情で、学者同士の流通は、意外と片寄ったままで固定してしまっているらしい。上海につい近々著作刊行予定のLeo欧風Leeハーヴァ一ド大学教授に、これまた日本文学者の上海を論じて斬新な北京大学の劉健輝を会わせたい、などと夢想しつつも、これまた夢。

無論今回の会合は、欧米中のシナ学者が一同に揃うというような大規模な会合ではなく、むしろ中堅から若手が主体のこじんまりとした会合で、全員が全員のペイパーをあらかじめ読んで討議をするという趣向。まとめ役は、今年で三○周年を迎えた「プラハの春」以来まる三○年にわたる亡命生活の末、最近カナダのトロント大学を一旦離れ、この一年カレル大学に客員として招かれたMilena Dolezelova教授。昨年のアムステルダムの国際比較文学会国際大会のおり、ファン・ゴッホの日本から中国での変容という当方の話題に興味を持ち、その延長での発表を頼まれての参加であった。北京大学からはまたしてもYue Daiyun楽黛雲夫妻がXia XiahongとChen Pingyuanというまだ若い夫妻とともに出現。楽さんとご一緒した国際学会はかれこれ十近くになるはずだが、あいかわらずの元気には呆れるばかり。若いおふたりは英語もなさらず、当方が不如意なのに気づくと、挨拶程度で済ますようになってしまった。無論発表は中国語でも小生以外の参加者はまったく不自由しない環境である。

会議の焦点のひとつは辛亥革命以降飛躍的にその数を増したさまざまな雑誌、文芸誌に関するデータ・ベースの開発である。SOASのMichel Hockxを中心としてサブ・コミッティが活動を開始(E-mail:mh17@soas.ac.uk)。プリンストンの院生でこの時代の演劇雑誌の網羅的研究に着手したDietrich Tschanzの協力も得て、http://www.personal.u-net.com/~hockxhome/momo/momo3a.htmlで現在までできでいるデータ・ベースにアクセス可能。なお雑誌現物へのアクセスこそが大問題だが、ハイデルベルク大学着任以来ここの図書館規則を大改造して--普通「雑誌」は「蔵書」扱いされない--、民国期の中国雑誌大収集を形成してしまった化け物Rudolph Wagner教授(通称「帝王」)と奥方のCatherine V. Yeh(葉女帝?)教授とが、出版形態や印刷術、発行部数や頒布状況、挿絵研究にまでいたる多彩な視野を含んだプロジェクトを進行中。そこでようやく当方の出番となる次第で、つまり胡適Hu Shi陣独秀らの『新青年』はどうみても『白樺』の意識的な中国版だし、当時の中心的な媒体『東方雑誌』などは、販売形態からしても、さらには広告の掲載方法に至るまで、博文館の『太陽』や『中央公論』を模倣した路線を取っている。当時の日本の雑誌産業やマスコミ界との比較を抜きにしては、一九一○年代以降の中国など、もとから語りようがないのに、その部分の知識が欧米の中国学者も本土の中国人学者にも、ほぼ完全な空白地帯となっているのだ。たまたま日文研で「総合雑誌『太陽』の研究」というのの幹事をおおせ付かっていたお陰で、耳学問がにわかに役だった。もっとも資料を持参していれば、なおのこと活躍あるいは貢献ができたはずなのだが、そんな余裕は、精神的にも物理的にも、出発前の狂騒状態ではとてもなかった。

ドレツローヴァ教授は、当時の新知識受容のひとこまとして、黄人編『普通百料新大詞典』(1911)を取り上げた(「十五冊、定価八元、三千部為限」と新聞広告にある)。ここでの見出し用語選択は、三十年ほどまえに西周らが西洋語を漢語に移植した事業が、いわば中国本土で追認される過程といってよく、しかも--まだ未確認なのだが--その背後には博文館が当時企てていたEncyclopedia Britanica日本語翻訳事業との絡みも見えてきそうな様子なのだ。とりわけたまたま興味を持っていた「文学」の訳語に関しては、中国本来の定義と日本経由の西洋語の定義とが並列して長々と説明されており、各国文学のbelles lettresの趣意を明確にするため「美文学」などという用語が「美術」と対をなして登場する。一方で高文学は読解困難、他方で通俗文学は文学の価値を持たず、ために中国では欧米に比べて文学の社会的影響が少ない、といった現状批判には、文人の伝統への批判と白話小説の実験への背景としても興味深い。大学制度で法学部や経済学部が成立し文学部と分離することで、それとは裏腹に儒学的伝統としての「四書五経」の文学が解休せざるを得ぬ経緯とか、「文科大学」の「哲・史・文」におけるhumanitiesの訳語としての「文学」という語彙との相乗や齟齬においても、日本の大学制度の移行に平行する現象が、中国でも遅延発生している。また、日本で狭義の文学が政冶小説などを切り離す過程で「美文学」を自称する経緯や、言文一致という文壇政治的選択が、中国では「白話小説」運動へと鋳直される過程で、「小説」の社会的地位が如何に変動したのか、その中で魯迅の『中国小説的歴史的変遷』や『中国小説歴史略』はいかなる社会的な役割を負ったのか、人臨会笹川仲郎の『中国文学史』は中国近代に進歩史観的「文学史」を導入するなかでいかなる位置を占めるのか、など疑問が次々に沸いてくる。

また議論の過程で、例えば「雑誌」といった言葉ひとつ、日本語からの重訳であることが、かならずしも中国学者共通の認識とはなっておらず、またそれをJournalとかMagazineと訳しても、今一つしっくり来ず、言葉どおりの「雑誌」的性格が欧米の学者からは、なにか中途半端で分類不可能なものと認識され、それがいままで学問的な取り組みを阻害する要因となってきた、と言った意外な側面も見えてきた。旧東欧の学者などは、どうしても「小説」を、ルカーチやシクロフスキーといった枠組みに当てはまるか否かで裁断してしまうので、romanかfictionかといった定義のところで足踏みしてしまう。むしろ既製の概念で回収不可能な部分を主題化しなければ、中国学も西欧文献学の補助学に過ぎなくなりかねまいに。

さらに、古典詩文などとはまったく異質な、ジャーナリズムというこんなにも雑多な媒体を、いったいどうやって分類し分析すればよいのか、などという、古典ボケ、「美文学」ボケの頭の堅い「方法論」の議論がまたぞろ持ち上がるので、『太陽』の研究で鈴木貞美氏が編み出した臨機応変な方法--雑誌の特集号に合わせて教育史、女性史、経済史、軍事史などなど各分野の第一人者を参加させて議論を戦わせる、時事間題にあわせて焦点を絞り、当時の記事と現在の定説を衝突させる、必要に応じては時間軸にそって特定の論者や議論の展開や挫折を追求するなどなど--を二・三ご参考までに披瀝もし、またほかならぬ鈴木氏主催の日本の女性雑誌をめぐるワークショップが十月にルーヴァン・カトリック大学で開催されるので、ご参考にと、中国近代女性雑誌研究の専門であるDenise Gimpelには広告してみたりもした。

だが、思い返せば、我が『太陽』の総合的研究も、『東方雑誌』との比較研究まで視野を広げなければ、とりわけ一九一○年代以降の東アジア文化史研究としては不十分たらざるを得ないだろう。『白樺』研究者が、武者小路も執筆している『新青年』にまで探索の範囲を拡大せず、中国文学と国文学で、境界線を引いて自足しているのも「モダニズム研究」の立場からすれば、妙な自己限定ということにもなろう。日本の女性雑誌もまた欧米の翻案であることはもちろんだ。が、『小説月報』などには、今度は日本有名婦人のブロマイドが再三掲載され、安吉朝音といった女流画家の挿絵が取り上げられている。そうした事情に関して、どこかに詳しい研究はあるのだろうか。まだ手付かずの仕事が、このあたりにごっそり残存している。




《モダニズム研究会発表要旨》
1998年8月4日/於箱根ミスティイン仙石原新館



ヴィフレド・ラム《ベリアル、縄の王》(1948)についての一試論
――東と西の歴史の間に花ひらいた芸術――

村田 宏

キューバ生まれの画家ヴィフレド・ラム(1902-1982)の芸術については、近年、研究の進展が著しい。とりわけ、1941年のキューバ復帰後の作品を巡る学的蓄積は、今日のラム研究の基礎を形成していると言ってよい。例えば、キユーバ帰還後のラム絵画が、すべてではないにしろ、多かれ少なかれ、キユーバの民俗信仰サンテリア(アフリカ・ヨルバを起源とする土着的な宗教とカトリシズムとの習合形態を示すキューバ特有の宗教)の宗教的図像に基づくことを明らかにした研究は、その最大の成果と称すべきものであろう。実のところ、故国復帰後のラム絵画には、アフリカ・ヨルバ族の神エシュに由来するエレグア、雄烏で象徴される戦士の神オチュン、罪を犯した者に正義と罰を分配する雷神チャンゴ、あるいは鉄と戦争の神オグンといったサンテリアの聖霊(オリチャ)たちが繰り返し現れているのである。

もとより、こうした研究が、多くの注目すべき知見をもたらし、多大の学問的貢献を為してきたことは否定できない事実であり、これを正当に評価しなければならないことは、幾重にも真実であるだろう。しかしながら、今日のラム論において、今やいくぶんか安易な通説となりつつあるサンテリアの図像的源泉の議論は、ラム研究の大前提として尊重しながらも、これを批判的に見る視点も必要かと思われるのである。

というのも、例えば、《ベリアル、蠅の王》(1948)といった作品に着目したとき、そこにはサンテリア(アフリカ=キューバ)のコンテクストによっては説明しえない図像が現れているからである。それらは「結合、怪物的幻想」あるいは「生命の泉」といったヨーロッパの名高い錬金術の図像との明白な類縁性を示しており、ラムが物質変成の技術たる錬金術に着想を求めていた形跡は紛れもないのである《ベリアル、蠅の王》におけるこの錬金術的なコンテクストを最終的に完結させるのが、画面左下の不可思議な数表に他ならない。これまでのラム研究史において、この奇妙な数表についての具体的な典拠を明示した論考は見当たらないが、筆者は、これが、16世紀に活躍したスイス生まれの医化学者テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム、通称、パラケルススに関連するものと考えている。《ベリアル、蠅の王》中の数表と、放浪の大練金術師パラケルススが案出したという金星の魔方陣とは、偶然として斥けることが殆ど不可能なまでに奇妙な一致を見せているからである。このパラケルススの魔方陣は、いずれかの経路をへてラムの許に到達したと思われるか、その一つの有カな経路として、エリファス・レヴィの『高等魔術の教理と祭儀』が推定される。シュルレアリスムの指導者アンドレ・ブルトンが探く傾倒したこの19世紀最大の隠秘主義者レヴィの奇書を、ラムが属目する機会に恵まれたかどうかは今のところ確証の外にあるものの、一書中の「へルメスの書」と題する第22章には「パラケルススに依る惑星霊を招ぶための魔方陣」が図入りで紹介されており、しかも、いわゆる「マルセイユの遊戯」に参加してシュルレアリストたちと交友を持ったラムが、隠秘主義への傾斜をシュルレアリスムと共有していたとするならば、レヴィを経由した形でパラケルススから霊感を得ていた可能性は必ずしも否定できないのである。

こうして「新世界における最も優れたシュルレアリストの一人」たるラムが、その発想の基盤をヨーロッバの錬金術に置いていたことが明白である以上、ラム芸術をサンテリア(アフリカ=キューバ)のコンテクストだけから考えることはもはや許されないことになるだろう。そして、さらに注目すべきなのは、広東出身の中国人を父親に持つヴィフレド・ラムが、第二の妻へレーナ・ホルツァー(ドイツ出身の化学者)を通して知ったユングの思想から貴重な啓示を受けつつ中国の道教、ならびに中国の錬金術(煉丹術)にまでその芸術的視野を拡大させていた可能性のあることである。すなわち、ラム絵画の正当な理解のためには、従来、指摘されているアフリカ=キューバの遺産に加えて、画家のヨーロッパ的遺産と中国的遺産というものを想定することが不可欠であり、それらは、相互に矛盾することなく、また相互に排除することなく、むしろ密接に関連しあいながら、ラムの豊かな芸術創造の堅固な基礎を形成していたと見るべきなのである。

かくして、「東と西の歴史の間」に生まれ育ったヴィフレド・ラムは、混血の国キューバさながらに、常にさまざまに領域に開かれつつ、多様な要素を組み入れるという手法によって、殆ど無限の厚みと広がりを備えた独自の芸術を切り開いていったのである。そして、そこには、自己に固有の文化的多重性に思いを潜めながら、東洋や西洋という枠を超えて、いわば近代の彼方へと秘かにその視線を届かせる異貌の画家の姿が浮かび上がってくるようにも思われるのである。

原理的には「中心」も「周辺」も存在せず、あらゆるものが等価であるという現代にあって、その芸術的源泉がアフリカ=キューバ、ヨーロッパ、そして中国にまで及ぶ「キメラの画象」ラムの複雑多彩な作品が、知的刺激に満ちた比類なき芸術的果実たりえていることを疑う者はもはやいないだろう。




20世紀文学とディアスポラ――声の越境

西 成彦

交通手段の発達と政治的変動という二つの要因があいまって、二十世紀は大量のディアスポラ知識人を産み出してきた。大航海時代が大量のディアスポラ労働者を供給する地球経済の近代化に大きな弾みを与えたのと同じ道理である。

有史以来、ディアスポラの民であることを自認してきたユダヤ民族にとっても二十世紀は、シオニズム的な祖国復帰運動の過熱を含め、新しいディアスポラの時代として立ちあらわれた。なかでもガス室への移動は、彼らにとって最悪のディアスポラの旅であったといえるだろう。

この文脈の中で、イツィク・マンゲル(ITSIK MANGER,1901―1969)という一イディッシュ詩人の作品を読むとき、ディアスポラを選ばれて生きてきたユダヤ民族に属する一作家の「手法」が明確になってくる。

・異言語を話す異教徒に取り巻かれた一言語共同体の治外法権の行使。
・逆に、異言語を話す異教徒と共生する道を模索しなければならなかった近代国家共同体の悪戦苦闘。

ディアスポラと文学の関わりは、この二重の二十世紀的課題と併せて論じなければならない。

『エステル記・歌謡集』MEGILE LIDER(1936)は、中世以来、東ヨーロッパのユダヤ社会で「プリム祭」の余興として演劇化されてきた「エステル記」上演の伝統を踏まえながら、架空の登場人物(仕立屋の青年など)を加えるなど趣向を凝らし、現代的なオペレッタ台本として書き下ろされたマンゲルの代表作のひとつである。

そこでは伝統的な反ユダヤ主義者ハマンもまた、ユダヤ人によって演じられるべく一定の役をわりふられ、聴衆の同情を買いうる人格化を施されており、またアハシュエロス王とエステルをめぐる事蹟を「傍観」するペルシャの市民たちにもユーモラスな機能が課されている。そして、なによりも、登場人物はことごとくイディッシュで語り、イディッシュを解する聴衆全体が登場人物の一人一人に感情移入できる工夫が各所に施されているのである。そこでは蝿さえもが「エステル記」朗詠の抑揚でもって、羽音を立てる。

つまり、ここではイディッシュ語のテキストの中で、さまざまな言語が交錯しあい、時には対話が成立し、時にはノイズが場を埋め尽くしてしまう対話不能性がさまざまな手法を用いて仄めかされる。

多言語的なポリフォニー空間を地球上の各地に現出させてきた二十世紀の歴史を、文学はどう再現=表象しえたのか?しうるのか? この問いは、二十世紀モダニズムを研究するものにとって避けては通れない問題であると思う。

こういったことを研究会では、『エステル記・歌謡集』を下に歌曲化されたいくつかの楽曲をテープを用いて鑑賞しながら出席者に対し、問い掛けた。

このテーマについては、拙文「イディッシュ語を聴くカフカ」(『マゾヒズムと警察』筑摩書房、1988)および「蝿のように唸る言語」(『中央都市文化の総合的研究――ドイツ・スラヴ・ユダヤの葛藤と混交』サントリー文化財団研究助成報告書、研究代表者:石川達夫、1998)を参照されたい。




恐怖という詩神――マンデリシタームのスターリン頌歌

亀山 郁夫

1930年代の大テロル期に「民衆の敵」として犠牲を強いられた知識人は枚挙にいとまがないが、詩人オーシプ・マンデリシターム(1892〜1938)ほど時代がはらむ危うい兆しを察知し、その分裂した内面を素朴にさらけ出して見せた詩人は少ない。「芸術家の死とはその創造の最高の行い」と書いたのは彼自身だったが、おのれの死へと向けて詩人は、まさに鬼気迫るような晩年を生きのびて見せた。その悲劇的な死は、大テロルという時代の狂気を生きのびるために自らの狂気を武器とせざるをえなかった同時代人の宿命を、他のだれにもまして雄弁に物語っているように見える。

1934年5月、スターリンを批判する寸鉄詩(通称「クレムリンの山男」)の執筆が発覚し、マンデリシタームは逮捕された。だが、本人の予想に反し、驚くほどの情状酌量でもってコミ共和国への3年の流刑が決定された。疑心暗鬼にかられた詩人は、流刑地で自殺未遂を図り、それを知ったスターリンは、ヴォローネジへの流刑というさらなる寛大な処置に切り替える。当時、スターリンによるこの度重なる厚遇は、文壇全体から「奇跡」と称えられたが、しかしそこには、当時の指導部内の政治力学、とりわけブハーリンとの関係が微妙に影を落としていた。

ヴォローネジ時代、マンデリシタームは詩人として最後の想像力の開花を経験し、その実りは、次の3つの「ノート」に書き留められていった。

「第1のノート」――1935年4月〜8月
「第2のノート」――1936年12月6日〜1937年2月末
「第3のノート」――1937年3月はじめ〜5月4日

ヴォローネジでのマンデリシタームは、現実との和解、体制との和解というテーマをもって自らの悔悟の証としなければならなかった。それゆえ「第1のノート」には、詩人が「クレムリンの山男」で批判した農業の集団化に対する微妙な態度の変化がうかがえる。とはいえ、それらの詩における叙情的ヒーローはいまなお、その特権的な高みから地上に降り立つことはなかった(「だが、コルホーズに歩みゆく個人農のように/私は世界に入っていく。そして人々はすばらしい」『スタンザ』)。だが、1936年8月の第1次モスクワ裁判(ジノヴィエフ、カーメネフらに極刑が下された)によって詩人をめぐる状況は暗転し、粛清の危険が身に及ぶのを恐れた彼は、1937年1月から2月にかけて自らのサバイバルのための詩に手を染めることになる。それが、「第2のノート」の中心を占める、スターリンを主題にした「連詩」と全94行からなる「頌歌」の執筆だった。

今日、とりわけ「頌歌」の存在をめぐっては議論が分かれ、「頌歌」が詩人の自発的な意志による詩ではなく強制されたものとする意見(ナジェージダ・マンデリシターム)、頌歌そのものが不成功に終わったことをもってよしとする意見(アヴェリンツェフ)、さらにはこれをマンデリシタームの詩の中でも傑作の一つと見る意見(ブロツキー)等さまざまである。一部の研究者は、マンデリシタームにおける反スターリン主義を強調しようとする余り、かなり偏った見方をこの詩の解釈に反映させているが、しかし実際にこの「頌歌」は、詩人のどのような構想をもとに書き上げられていったか。

一群の「連詩」は、ヴォローネジの自然に生きる詩人がそこここに揺曳するスターリンとの内的対話を折りに触れて書き留め、ドラマタイズしたものといえるが、やがてそれは一つの中心的な像を結びはじめた。それがギリシャ、グルジア神話におけるプロメテウス、アミラニの伝説だった。しかし、ここで注意したいのは、ゼウスの罰を受け、カフカスの山中に繋がれたプロメテウスがなぜスターリンと重ね合わされたか、という問題である。なぜなら、ゼウス対プロメテウスという対立の構図は、スターリンによって罰を受けたマンデリシターム自身の存在をむしろ強く暗示するように思われるからである。マンデリシタームはこのプロメテウス神話に、スターリン(=ヨシフ・ジュガシヴィリ)のカフカース出自という伝記上の事実をも含めて、彼がその青春時代に嘗めた投獄の体験を重ね合わせようと努める一方、プロメテウスと詩人の同一化のモチーフを巧みに挿入しつつ、たがいの運命共同的な意識と分身関係を強調している。その際、彼ら二人が同じ名(ヨシフとオーシプ)を授かったことも一つの根拠となった。思えば、マンデリシタームにとって『頌歌』は、悔悟の詩であり、無罪の詩であると同時に、『頌歌』の書き手にふさわしい、誇らかな自負の詩とならなければならなかった。フィナーレに至ってプロメテウス神話が、旧約の神とイエス・キリストの関係に置き換えられ、独裁者と詩人の関係が新たに投影されるのもその現れと見てよい。詩人はこうして、二つの受難神話の中にみずからの受難の物語を張り合わせることで、独裁者を称える詩人の矜持を詩のテクストに刻みつけていったのである。翻って考えるなら、『頌歌』における、旧約の神=ゼウス、プロメテウス=イエス・キリストをダブルイメージさせたスターリン像とは、マンデリシタームの全詩業に息づくヘレニズム的世界観の根源から立ち上がった肖像画だったと言ってもよい。また、讃えられる者と讃える者の「類似」という、一見「不敬」ととられかねない対置が、ピンダロス風の「頌歌」に一般的に認められる手法であることは、詩人自身かなり周到に計算していた可能性がある。このような意味で『頌歌』は、無罪の詩でありつつ、一種の完全犯罪を思わせる複雑なトリックを内に秘めた賛歌となった。

マンデリシタームにおける『頌歌』の位置づけ、さらには彼のスターリン観そのものをもっとも鮮明に描き出して見せたのは、現代ロシアの詩人のアレクサンドル・クーシネルだった。

「詩人が『頌歌』を書いたのは、恐怖と救われたいという願望からでしたが、次第にそれに熱中していていったのです。このことは、いま私たちに思えるほど、たいへんなことではありませんでした。1930年代の人間は自分の人間的正しさなどというものに自信をもっていませんでしたし、正当さの感覚は罪の感覚と結びついていたからです。しかも、権力による催眠、とくにスターリンの催眠がありましたしね。これらの詩は、マンデリシタームの動揺と疑いのもっとも完全な証拠ではあっても、唯一のものというわけではないのです」

ナジェージダ夫人は、『頌歌』を破棄することをためらった理由として、もしも破棄したならば「真実は十分なものではなくなるだろうから」と書き、「二重の存在、それはわれわれの時代の絶対的事実であり、だれもそれを逃れなかった」と書いた。だが、ヴォローネジ最後の冬を迎えたマンデリシタームについて「二重の存在」というのは必ずしも正確ではない。むしろ、スターリンとの和解をつづる『頌歌』の執筆に熱中しつつ、彼はそうした「二重の存在」からの解放と喜びを見いだしていたのであり、彼の詩人としての存在論的かつ人間的真実はまさにそこにこそ胚胎しているからである。

(注)本報告は、『思想』1999年1月号に掲載。




《プロジェクト試案》――研究会第二回合宿のために

プロジェクト(案)

西 成彦

(A)20世紀文学とディアスポラ

モダニズム運動が二十世紀的なディアスポラの産物のひとつであることは、ダダ・シュルレアリズム運動やパウンド、エリオット、ジョイスや、ボルヘス、ナボコフ、ゴンブローヴィチらを見ても分かる通りである。したがって、モダニズムにおけるディアスポラではなく、二十世紀ディアスポラ状況の中で、一定の作品群に「モダニズム」の名が冠せられる事情を追求する倒置的発想がいま必要とされていると感じる。そうすることで、従来、「モダニズム」の名で呼ばれてこなかったものと「モダニズム」との橋渡しが可能になる。またエリオットの「荒地」あたりにも顕著な多言語使用の技法と、テキストを拘束している単一言語的枠組のあいだのネゴシエイションを問うこともまた重要であると感じている。ベンヤミンの「翻訳者の使命」あたりを熟読しながら、現代文学の言語間横断性を集中的に問ってみたい。

(B)独裁者と文学(芸術)

亀山さんの発表を聞きながら、スターリンやヒトラーやムッソリーニだけを二十世紀文化とファシズムの共犯性を論じるスケープゴートにして終らせてはならないと考えた。彼らを孤立させないために、中南米の一群の独裁者や、欧米列強の大統領たち、日本の天皇、戦後アジア・アフリカ・アラブ地域の暴君たちを文学(芸術)がいかに取り巻き、また包囲し、おいつめていったのかを正しく評価していく必要がある。本研究会の広域性を活かすのに、この問題設定はきわめて有効だと考える。モダニスト的な独裁者たちの肖像を文学(芸術)はいかにトレースしえたのか?これをファシズム研究というような枠ではなく、モダニズム研究の一環の中で論じ合うこと。

(C)モダニズムとナショナリズムの共犯性

一見、脱国家的な文化のグローバル化を推進したかにみえるモダニズム文学が、二十世紀の地政学的な配置の中で、ナショナリズムの中に絡めとらててしまったケースは、決して例外として片づけるわけにはいかない。村田(宏)さんの発表にあったヴィフレド・ラムとキューバ・ナショナリズムの創設神話の関連性などその一例だが、同じことは、日本モダニズムを考える上でも欠かすことのできない視点を提供する。宮沢賢治、中野重治、保田與重郎…試案(B)とも関連するが、モダニズムとファシズムとは背中合わせの兄弟分なのだ。もちろん、パウンドとアメリカン・ナショナリズムの問題もある。この会のメンバーが総力で研究対象に据えることで、何かが見えてくる期待と予感がある。




プロジェクトについての一試案

「言語映像と視覚映像(および聴覚映像)のあいだ」

大平 具彦

第二回の研究会が近づいてきました。今度の会ではテーマをどう設定するかにについての本格的な議論が行われます。そこで、私も上記のようなテーマを考えてみたというわけです。タイトルは「文字言語と造形言語のあいだ」としてもいいかもしれません。20世紀アヴァンギャルドの最大のテーマは、文字言語であれ造形言語であれ、幅広く言語とかイメージとか呼ばれているものは、表象の装置などでは決してなく、その使用法によっては、われわれの知覚そのものを組み直し、われわれを別のわれわれへと切り直してゆく動力源としてデザインできる、ということでありました。今世紀アヴァンギャルドにおいて、詩人と画家があれほど連帯を深めて一体的に活動したというのは、双方において、その新次元のイメージ作用について共通の理解とか展望があったにちがいありません。デュシャンやマグリットやアラカワがあれだけ言語にこだわり、ツァラやブルトンが詩についてと同じ熱心さで絵について語るのも、そのひとつの表われでありましょう。

ところで、それだけ詩人と画家を切り結んできた、言語と視覚のインターフェースたるイメージの働きについては、これまでそのどちらか一方からのアプローチが中心で、双方向的には余りなされてきませんでした。イメージ作用が文学や芸術に属するだけでなく、人間の知覚そのものの一種のモナドであるとするなら、それを双方向から見て新しく設計し直してゆくことは、20世紀アヴァンギャルドから出発して今後の表象の問題を組み直すための、ひとつの鍵になり得ると思われます。

(なお、プロジェクト・テーマ全般についての私見ですが、各テーマは、ある程度は包括性があった方がいいように思います。例えば、「ロックと芸術」、「不眠症と20世紀」ですと、範囲がちょっとせばめられてしまいませんか。その上にもう少し包括的なテーマがあって、その下位テーマとしてそれらが出てくるという気がしますが、如何。

あと、各プロジェクト案は、この研究自体、一応、・地域別編、・テーマ別編、となっていますので、地域・歴史に関連したもの、表象文化の問題全般に関連したものが、バランス良くあってくれればと期待しているのですが──。)




不眠症芸術のための覚え(忘れ?)書き

三宅 昭良

我々はもはやけだもののように生き、眠ることはできない。それが良いか悪いかは別にして、後ろ足で立ちあがり、火を手にしたときから、我々の目覚めと眠りは「不自然な」ものになった。なるほど人間はなおも風のにおいをかいで狩りをし、畑を耕して土とともに生きた。日の出とともに起き、日の入りにしたがって家路についた。しかしそれは自然の循環から置いてけぼりを喰らった者が、その距離を少しでも埋めあわせようという、ささやかなあがきだったのであり、けっして自然の懐にいだかれた者の姿ではなかった。その証拠に、人間だけが自然を祭った。祭りは、日常によっては埋めあわせえない自然との距離を暴力的に飛びこえる試みにほかならない。

時計を手にする我々は、一見、眠りたいときに眠り、起きたいときに起きているかのようである。しかしじつは我々は、どこの国にも決められてある<標準時>というものにしたがって起き、眠っているのである。それは正確に国境と重なってひろがり、その線の内側の人間に均等にして均質な時間を差し出している。ひとつの国民国家全体にむけて共通の時間を指し示し、一つひとつの行為が「いつ(どこで)」行なわれたかを確認できるシステムを提供しているのだ。そればかりではない。そいつはイギリスのグリニッヂを基点にして連動しているので相互に換算が可能であり、つまり原理的に我々は世界のどこにいてもこの<標準時>というものにとらえられているのである。ところがそれは太陽の運行をなぞっているので、きわめて「自然な」時間を装っており、まさにそのおかげで我々はやすらかな目覚めと眠りにつけるのだ。

<標準時>はわれわれの日常の身体をふかく規定するが、そのことによってこのシステムは今ひとつの欲望をささえてもいる。つまりそれはコミュニケーションを可能にするコードの一つとして機能する*。語ろうとする対象がいつ(どこで)生起したのか確定するすべがなくては、文字通り「お話しにならない」からだ。だから逆にいうと、我々が一見、眠りたいときに眠り、起きたいときに起きているかのようにふるまい、快適な生活を送るとき、それは自然から疎外された者たちが、<標準時>という新しい「自然」のなかで他者と「自然な」コミュニケートをなしている証拠なのだ。ということは、眠りたいときに眠れない不眠症は、そのような新しい「自然」からも疎外されたときに生じる存在の様式であり、他者との「自然な」コミュニケートが壊れている兆候だということになる。

眠れぬ夜のことを思い出してみよう。いくら眠ろうとしても、そのことが返ってわれわれを眠りから遠ざけてしまうあの夜のことだ。苦悶のなかで我々は皮膚の内側と外側とが完璧なまでに反発しあうのを感じる。残酷にも、世界は<私>と<私ならざるもの>のふたつに分けら、前者は後者によって徹底的に疎外される。<私>は暗黒の空間において孤独を噛みしめる。眠ろうとする自分を見つめるもう一人の自分、それを見つめるもうひとりの自分、そしてそれを――。こうしてくり返される無限反復によって、もっとも眠りに近い自己から無限に遠ざかる意識。そのような意識は、きのうまでの経験もこれからの展望も失なって、ただ<ある>という深みの地平に沈んでゆく。

レヴィナスの『時間と他者』をひらくと、その冒頭に、<実存すること>と実存者の区別が語られている(レヴィナスの用語は「本質に実存が先行する」式の実存主義とは関係がない)。彼によれば、実存するのはつねに実存者であり、<実存すること>は実存しない。実存者は<実存すること>と<しないこと>の地平のうえに投げ出されて、実存することを、いわば強いられている。絶対的孤独とは、この<実存すること>と<しないこと>の地平に投げ出されてあることを体験として知ること、いかなる原因も目的もなく、いかなる意味も意義もないままに、<ある>ということだけが肯定されえる在り方を、体験として知ることである。レヴィナスによれば、<不眠症>がのぞき込むのは、この絶対的孤独である。

かつて人間は神とつながりえると信じていた。神が差しだす<愛>を受けとるとき、人は神のいまします宇宙につつまれ、安らいだ。そのときおそらく<私>は溶けてなくなっていたろう。しかしそのようなことがもはや信じられなくなったとき、神のいない、<私>だけがいて、しかし一切の意味をうしなった宇宙に我々は置き去りにされた。<私>だけが宇宙にあり、私が<ある>ことに何の意味のない様態。上に述べた<絶対的孤独>とは、喩えていえば、このような孤独なのではないか。ちなみに、英語では神とつながることをcommunicateと言い、その行為をCommunionという。

コミュニケーションとは、神とのコミュニケートを地上において反復/模倣しようという試みである。しかし両者には決定的な違いがある。ひとつには、コミュニオンの場合、一方的無媒介的に大きな力につつまれてあるのだが、コミュニケーションは共通のコードに基づいて双方向のやりとりが行われる。そして前者において<私>は消滅するが、後者ではふたりの<私>は消滅しない。それどころか、共通のコードにつつまれながら交わす信号の交換によって、<私>は自己の宇宙を意味でみなぎらせるのである。ここでいう「意味に満ちた<私>の宇宙」とは、直説法、仮定法、接続法そのほか、あらゆる統語法上の法で表わされる<私>と<私>にかかわる体験の総体である。

筆者がここに考える<不眠症>とは、意味に満ちた宇宙から絶対的孤独の宇宙に転落する(あるいは目覚める)位相の転換のことである。先に述べたとおり、我々は自然から疎外され、標準時のなかでやすらかな表層を生き、眠る。不眠症はそのやすらかな世界からの脱落である。そのとき我々は神に見放された際の、あの孤独にして無意味の姿に立ち返る。<あること>と<ないこと>の地平に立つ<私>-----いや、それは<私>ですらない----は、過去と現在と未来にかんする一切を失い、暗闇のなかにたたずむ---itsumademo.  itsumademo.

芸術もまた、畢竟、ひとつのコミュニケーションである*。しかしいやしくも芸術が前衛を名乗るのであれば、それはコミュニケーションをささえる共通のコードに異を唱え、それを揺さぶり壊そう、あるいは無効にしようと企らまれたものでなければならないだろう。だとすれば、前衛芸術のとる道は三つあるように思われる。ひとつは、暴力的に無媒介を装い、<私ならざるもの>を呑み尽くそうとする方法である。二つめは、擬装された無媒介と暴力のなかで<私>の消滅をめざす方法である。もちろん、前衛であろうと何であろうと、芸術がひとつの表現であるかぎり、無媒介ではありえないし、コミュニケーションの主体のいっぽうが消滅することはありえない。だから前衛芸術とは不可能をめざすという背理を含んだ行為である。しかし無媒介を装わず、いっぽうの消滅を願わずに共通のコードを突き抜ける方法はないのだろうか。もしそれがあるとすれば----これが三つめの道だ----、それは<私>と<私ならざるもの>の双方が、個々に、そして相互に絶対的孤独を確認すること、ただそれのみをめざすことである。

三つの方法のそれぞれが他のふたつから独立して貫かれる場合がはたしてあるのか、それとも前衛作品はすべてこれらの複雑な組み合わせで成り立っているのか、いまの筆者には分からない。また、第三の道として具体的にどのようなものを想像すればよいのか、はっきりと見えていもない。しかしそのことを白状したうえで、この第三の道を選ぶ芸術を、筆者は「不眠症芸術」と呼びたい。暴力的祝祭的にコミュニオンを模倣するのとはちがい、絶対的孤独へとむかって負のコミュニケーションをめざす行為、そのことによって<標準時>の無効化をはかるこの独特な営為を、前衛芸術のなかに探ってみたい。そう筆者はいま、考えている。

つづく(かもしれない)

*コミュニケーションの問題を考えるには、当然、その媒介になる手段----それを総称して<言語>と呼ぼう----の問題を考えなければならない。しかしそうするとあまりにも長くなるので、ここではコミュニケーションの背景となる<時間>の問題に議論を限定した。

**いかなる受け手も想定しない創造行為というものも、たしかにあるだろう。しかしその場合でも、作者は創造行為において受け手の役を演じている。


――――西さんの三つのプロジェクト案を読み、大平さんのご意見をうけて――――

西さんの三つのプロジェクト案はどれも大変興味深いもので、そのすべてに参加したいと思います。ただ、大平さんのいわれる包括性を考えると、三つは少しずつ位相を異にしてはいますが、しかしたとえば「二〇世紀の政治と芸術」というようなもう少し大枠のテーマの三つの側面になるとも思います。

僕が書いた「不眠症」は、皆さんお分りのとおり、祝祭的暴力とおおいに関連があります。また、小畑さんのおっしゃられる「悪趣味(キッチュ)」と対極の関係になるのではと愚考いたします(小畑さん、いかがでしょう?)。いま、個人的には<暴力>のことを考えている最中なので、「二〇世紀芸術と暴力」というような大テーマの下に、いくつかサブテーマを立てるというのはどうかと思案しているのですが。これだとフェミニズムも権力も「ロックと芸術」のある側面もくくれるのではないかと思います。あと、ややありきたりかなと思いますが、「前衛芸術と神秘主義」といった系列の問題もはずせないのではないでしょうか。私見では、神秘主義は科学と紙一重です。電話を発明したベルは神秘主義者でした。高橋さんの話された「レントゲン」もこの関連になるでしょう。ブラヴァツキーは科学を遅れた神秘主義だと考えておりました。アインシュタインやミンコフスキーと四次元の関係はあまりに有名です。ダダ、シュールレアレスム、マレーヴィチ…挙げはじめたらキリがありません。デュシャンも科学と神秘にまたがる芸術家でした。最近では、電脳空間はオカルト・メッセージの宝庫です。ホーキングの宇宙論とか脳科学の最先端などは科学だかオカルトだか分かりません。こうした現象と前衛芸術の関係を総括することは、置き去りにできない問題ではないでしょうか。




《科研費申請時のコメント》

稲賀 繁美
劉 建輝(北京大学)上海のモダニズム、満州国の文化遺産
帳 競 (國學院大学)中国近代小説の社会誌
尹 柤仁(漢陽大学) 韓国モダニズムと前衛

井上 明彦
美術作品・美術活動とその場所の関係は、20世紀のアヴァンギャルドの最重要関心事の一つであり、近年はさまざまな角度から研究や実践が進められている(今年度の美学会全国大会のテーマも「環境美学」であり、私も「住居環境と芸術」という表題で報告を行った)。文献としては、たとえば、
Douglas Criump, On the Museum's Ruin, MIT, 1993
Rosalyn Deutsche, Evictions: Art and Spatial Politics, MIT, 1996 など。

小畑 精和
1960年代以降、カナダは独自のアイデンティティを模索しはじめ、その文学も「カナダ文学」として自立しはじめた。しかし、多文化社会におけるそれは、既存の「国民文学」とは異なり、他の言語文化に脅かされ、「生き残り」を所用テーマとしながら、自己の姿を追求している。Margaret AtwoodのSurvival(1972, Anansi Press, Toronto)やMaurice ArguinのLe Poman quebecois de 1944 a 1965(1989, l'Hexagone, Montreal)にその辺の事情は詳しく語られている。また、近年はイン・チェン、ジョイ・コガワ、スカイ・リー、オック・チェンなどアジア系の作家が注目をあびている。ラヴァル大学のクレマン・モワサン(Clement Moisan)教授は移民作家の研究を進めている。

鈴木 雅雄
シュルレアリスムに関するものでは、Jacqueline Chenieux-Gendronを中心としたCNRSの研究集団ISCAMの出版物(Rachenal Kitter社から多く刊行されている)が、現在の研究水準を示す仕事であろう。
このほか最近では第二次大戦中のあめりかでのシュルレアリストたちの動向の研究が進んでおり、また「オクトーバー」グループのロザリンド・クラウスの仕事はシュルレアリスム芸術に対し美術史の中での位置を与えようとするものとして注目に値する。

高橋 世織
写真家で多摩美大助教授の港 千尋氏に講師として来てもらっており、死生観のコスモロジーについてしゃべってもらっていますが、これが実におもしろい。
現在日本文化研究センターに(一年間)来ているモントリオール大学のリィヴィア・モネもおもしろい。今度彼女にVisuallity in Modern Japanese Cultureについて集中講義に来てもらうが、何でもこなせる人である。

長畑 明利
前衛詩を含め、第二次大戦以降のアメリカ詩の流れを総括した研究として、Jed Rasula, The American Poetry Wax Museum: Reality Effects, 1940-1990(National Council of Teachers of English, 1995)がある。また、ハウ、ヘジニアンを含む「言語詩」(L=A=N=G=U=A=G=E poetry)の研究としては、Linda Reinfeld, Language Poetry: Writing as Rescue (Lousiana State Univ. Press 1992)があるが、いずれも「越境」、「雑種化」といった観点からの考察は乏しい。

三宅 昭良
モダニズムとポスト・モダンの関係でいうと、Paul Morrison, The Poetics of Fascism:Ezra Pound, T.S.Eliot, Paul de Man(1996)という本が出ておりまして、彼の論によりますと、パウンドなどが自由主義/民主主義を突き破ろうとしてファシズムに傾斜したロジックは、ポスト構造主義、脱構築と同質の行為であり、実はポスト・モダンはモダンからそう遠くないところにあるのだということです。なかなか面白い論でした。

村田 靖子
国内には現代ヘブライ文学(イスラエル文学)を専門的に研究している方はいない様子です。国外には多くの研究者が現代ヘブライ文学を研究しているようですが、当研究会で私が手がけるつもりのテーマではまだ誰もやっていないように思います。
関連テーマで研究している方として私が注目しているのは
California大学バークレー校の Robert Alter教授(ヘブライ文学、比較文学)
エルサレム・ヘブライ大学の Gershou Shaked 教授

米川 良夫
いささか漠然としすぎるテーマを立てましたが、Luciano Anceschi, Le poetche del Novecento in Italia(『イタリア20世紀の詩学』1972)等の理論的な研究を踏まえつつ、イタリア現代詩の流れを追って、その「連続と非連続」さらには「越境」を確認したいと考えています。具体的にはAndrea Zanzottoあたりに焦点を当てるものになればよいと思っています(拙稿「状況はどれほど変わったか」『現代詩手帖』平成2年10月号を参照)。





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