モダニズム研究会会報 |
vol.4 |
《投稿》 | ||
小畑 精和 | ---- | キッチュ kitsch |
《海外出張報告》 | ||
坂田 幸子 | ---- | バレンシア近代美術館(IVAM)訪問記 |
鈴木 雅雄 | ---- | ゲラシム・ルカ夫人との会見から |
野坂 政司 | ---- | UCバークレー・メディア資料センターのこと |
《講演・発表要旨》 | ||
長木 誠司さんと 岡 真理さんの講演要旨 | ||
鈴木 雅雄 | ---- | ルーマニア・シュルレアリスムについて ----ゲラシム・ルカを中心に |
《資料》 | ||
会員の活動 | ||
大平 具彦 | ---- | 編集委員会報告(お知らせとお願い) |
各メンバー執筆テーマ一覧 |
《投稿》 キッチュ kitsch小畑 精和 十年来ケベック文学と付き合ってきて、ナショナリズムと文学の関係に興味を惹かれるようになり、最近では母国を離れて書く作家に関心を持っている。1960年代後半の「プラハの春」の文化面での立て役者であり、その後フランスへ亡命を余儀なくされたミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(1984)を昨年再読した。その際「キッチュ」という概念の重要性を再認識させられた。 キッチュとは、いくつかの辞書の説明を総合すると、俗悪もの、悪趣味のことであり、ごてごて飾り立てた、下世話な、通俗的な作品や、ファッションを形容するときに使われる表現ということになる。語源はドイツ語のkitschen(「いい加減に作る」あるいは「(糞などをさっと片づけて)簡単に掃除する」)らしい。クンデラは語源に忠実な意味でも、比喩的な意味でも、現在キッチュは「糞の否定」なのだという。つまり、「美の仮面」なのである。例えば、卑近な例を挙げれば、お伽噺のお城のようなラブ・ホテル、ブランドで着飾ってコンビニで買い物をする若者、成金が知ったかぶりして飲む高級ワインなどであろうか。 ところで、昨今では、キッチュを現代文化の重要な特徴と見なす試みがある。例えば、デザイン論の宇波彰(『誘惑するオブジェ』)、文学評論のエヴァ・ルグラン(『クンデラあるいは欲望の記憶』Eva LeGrand, Kundera ou La Memoire du desir)を挙げることができる。ルグランは、キッチュとはあるオブジェや、文体や、趣味の問題ではなく、存在の問題なのだと言う。事実、クンデラは「存在との絶対的同意」の美的理想をキッチュと読んでいる。存在との絶対的同意とは、クンデラによれば、神であれ、思想であれ、愛であれ、存在の基礎を絶対化し、世界は正しく創造され、存在は善であるとする信仰である。そうした信仰に基づく美的理想は、人間の存在において本質的に受け入れがたいもの(糞)をすべて排除する。『存在の耐えられない軽さ』の中でクンデラが念頭においているのは共産主義のキッチュである。つまり、不快なのは共産主義の汚さ(収容所や粛正)ではなく、その「美の仮面」、メーデーの祝典、熱狂なのである。 ルグランによると、一方には、現実で直接的な対象を表現する態度が、他方には、イメージや観念を対象として表現する態度がある。キッチュが関係しているのは後者の態度である。直接認識されようとする世界がイメージに浸食されていくとき、実際に体験された感覚よりも、感覚の模倣に頼ることになる。先述の例で言えば、お伽噺のお城、ブランド品、高級ワインなどは直接的な認識よりも、イメージに頼る典型的な品物であろう。それによって、「糞」(ラブ・ホテルのいかがわしさ、質を見分ける能力の無さ、富の源の汚さ)を否定しようとするのがキッチュである。 同様に、キッチュな感動とは、現実のある物や出来事に対する感動ではなく、感動に対する感動、さらには、感動のイメージを前にした感動なのである。クンデラの小説はそうした事例が溢れている。例えば、『存在の耐えられない軽さ』では、次のような科白が見られる。「キッチュは二つの感動の涙を次々と生み出す。最初の涙は、芝生の上を走る子供たちは何て素晴らしいのでしょうと言う。二つ目の涙は、芝生の上を走る子供を見て感動する人と一緒に感動することは何てすてきなんでしょうと言う。この二つ目の涙がキッチュをキッチュたらしめているのだ。」 キッチュの評判がよくないのも、「芸術」に「特有」なオリジナリティがなく、既成のもの(あるいは感動)の(悪趣味な)寄せ集めと思われる点であろう。既視感が本来与えるはずの安心感を与えてくれず、個性が生み出す貴重さもない。しかし、キッチュなものに現代人が惹かれているのも事実ではなかろうか。世界が探検されつくし、地理的にもはや冒険の余地がほとんどないのと同様、科学の発達により未知なものがほとんどなくなった現在では、われわれが直接対象に接する以前に、ものは手垢に染まり、何らかのイメージを担わされている。 こうした状況でキッチュとは現実をより良き世界の夢に置き換えようとする想像能力の発現であり、人間の基本的態度の一つでもあるとも言えよう。そして、その夢は他者との共感を前提としている。誰もキッチュから逃れられる者はいないとクンデラも認めている。ただ、それが夢であり、現実ではないことを忘れるとき、あるいは忘れさせられるとき、キッチュの不快さが露呈する。だから、キッチュなものは嘘が見破られるとき、それが担っていた権威がはがれ、本来の弱さが露呈される。そこから、芸術作品において、キッチュにはパロディーのような批判力が生じるのではなかろうか。 文学あるいは芸術が特権階級のものでなくなったのが近代ブルジョワ社会であり、大衆(読者や観賞者)を視野に入れなければ芸術はなりたたなくなった。裏返せば「何が聖なのか」(クンデラの言う「糞の否定」)という問題から、「俗とはなにか」(クンデラに言わせるならばおそらく「糞の肯定」)に移ったとも言える。「俗」を偽って「聖」の仮面をかぶるとき、キッチュは悪趣味になるのである。最初に戻って、ナショナリズムに関してもキッチュは有効な概念のように思える。その不快さは醜さにあるのではなく、「美しさ」にある。 《海外出張報告》 バレンシア近代美術館(IVAM)訪問記坂田 幸子 IVAMという名前をはじめて見たのは、「ウルトライスモと造形芸術」という展覧会のカタログを手にしたときだった。厚さ3センチぐらいのずっしりと重たいそのカタログには、ウルトライスモ関連の雑誌を飾った表紙絵やイラスト、この運動の周辺にいた芸術家たち、あるいは詩人たち自身の描いた絵画などが、山のように掲載されている。私は以前からうすうす、ウルトライスモというのは前衛文学運動というだけではなくて、造形面もなかなか面白いのではないかと思っていただけに、このカタログを見たときには、「ほらやっぱりね」という気分だった。解説を書いているのはIVAMの館長のフアン・マヌエル・ボネットという人物で、その緻密と饒舌が入り混じった文体からは、ウルトライスモについて語るのがともかく嬉しくて嬉しくて、といった「明るいオタク」ぶりが伝わってきて、なんだかおかしかった。 その後少しして、『スペイン前衛芸術事典』という本を入手した。著者は、前述のIVAM館長ボネット氏。ともかくAからZまで、張り切りぶりが伝わってくる熱い語り口。扱っている資料の量も半端ではない。さらに、美術だけではなくて文学作品にも詳しい。そこで調べてみると、彼は1953年生まれの美術評論家で、かつ詩人として詩集も出しているのだとか。やはりこのボネット氏というのは面白そうな人だ! ……というわけで、モダ研から海外出張のお話をいただいたとき、私が思ったのは、IVAMに行ってみたい、そして館長さんに会いたいということだった。 バレンシア近代美術館は、20世紀芸術を検証・研究し普及させるための拠点として、今からちょうど10年前の1989年2月にオープンした。正式名称は Instituto Valenciano de Arte Modernoで、通称IVAM(イバム)。運営母体はバレンシア州政府。本館・別館あわせて5つの展示室を有し、つねに5つの展覧会が同時平行して開かれている。所蔵コレクションの中心は、20世紀スペインを代表する彫刻家フリオ・ゴンサレスの作品350余点。これらは美術館設立にあたって彼の遺族から寄贈されたものだ。その後、アンフォルメル芸術、ポップ・アート、フォトモンタージュなどにも力を入れてコレクションを増やし、現在、所蔵作品数は7000点以上にのぼる。これまでに200を越える展覧会を行ってきたが、そのうち6割以上が独自の企画展、約2割がポンピドー・センターやニューヨーク近代美術館など、国外の美術館との共同企画。企画展ではタピエスら、20世紀スペインの芸術家の展覧会はもとより、両大戦間の芸術運動を扱ったものが得意分野で、「英雄的時代――ロシアとハンガリーの前衛運動」展、シュヴィッタース展やモホリ・ナジ展などで高い評価を受けた。また、フリオ・ゴンサレスの鉄製の彫刻を多く有している関係で、金属を素材にした彫刻にも特別の関心を払っている。ちなみにこの原稿を書いている4月上旬現在、開館10周年記念として、「空間を鍛える――鍛鉄による20世紀の彫刻」展が開催中だ。 さて私がIVAMを訪れたのは昨年12月のこと。前衛芸術家たちによる子供たちのための作品を集めた「子供の世界とモダン・アート」展が話題を呼んでいた。1910年代から30年代にかけて――それはヨーロッパで前衛芸術運動がつぎつぎに生まれた時代であると同時に、新しい教育法の実験が行われた時代でもある。ドクロリー、フレネ、モンテッソーリらは、従来の抑圧的なやり方ではなく、子供たちの興味と自発性を尊重することで彼らの能力を引き出そうと試み、教材にも工夫をこらした。一方、当時の革命思想家たちは、社会変革の一環として、子供たちの衛生状態の改善や識字運動にも力を入れていた。こうした時代にあって、前衛芸術家たちも、子供たちが新しい時代の感性の担い手になるようにとの期待をこめて、彼らを対象にした創作活動を行ったことがあるのだ。「子供の世界とモダン・アート」展では、ヨーロッパ各国の前衛芸術家によって子供たちのために作られた絵本、教育玩具、文房具や家具、あるいは幼児教育のキャンペーン用に製作されたポスターなどが多数、展示されている。展覧会自体もさることながら、印象的だったのは観に来ている人々。手をつないだ仲の良さそうな老夫婦は、今世紀初頭のバルセロナで活躍したアーチスト、トーレス・ガルシアが描いた玩具メーカーの宣伝ポスターを懐かしそうに見つめている。こちらの若いカップルは、シュヴィッタースによる童話『かかし』や、リシツキーが算数の初歩をユーモラスな幾何学的イラストで解説した絵本などを、頬寄せ合って丁寧に見ている。あちらの家族連れは、バルラとともに「宇宙の未来主義的再構成」宣言に署名したデペーロによる木製玩具を指さして、なにやらお喋り……皆、肩肘はらずに展覧会を楽しんでいる様子が好ましく、IVAMの活動がバレンシア市民の間に根付いていることを伺うことができた。 上記の展覧会を観た後で、館長さんに会うため、IVAMのオフィスへ。肝心のボネット氏は約束の時間よりだいぶ遅れ、ワイシャツの裾を背中のところでズボンからベろりとはみ出させたまま、駆け足で登場。クリスマス前の交通渋滞に巻き込まれたのだそうで、はぁはぁ息を切らせながら、早速ウルトライスモのことについていろいろ親切に語ってくれた。 驚いたことにボネット氏は、1920年前後に活躍したウルトライスタたちの子孫や親類たちとかなり交流があるらしい。たとえば、カンシーノス=アセンスの息子とは友達づきあいで、いろいろ資料を見せてもらっているとのことだった。カンシーノスというと、ボルヘスが師と仰いだ人物だから、その息子も結構な年なのではないかと思ったのだが、実際には、60過ぎてからの結婚でもうけた子なので、ボネット氏と同年代なのだそうだ。ウルトライスモの雑誌の編集長などをつとめたアドリアノ・デル・バリェの息子とも付き合いがあるという。また、ボネット氏が現在いちばん興味を持っているウルトライスタは、ラファエル・ラッソ・デ・ラ・ベガ。フランス語、スペイン語の双方で前衛詩を書いたこの詩人は、その後イタリアに移り住み、あやしげな詩集を出版しては、その書誌事項を捏造し、スペイン前衛運動の偽の歴史を作り上げることに没頭した。ボネット氏は、現在ラッソ・デ・ラ・ベガの伝記を執筆中で、相当な量の資料を集めているが、そんな彼のもとへあるとき突然、大きな荷物が届いた。ラッソ・デ・ラ・ベガのイタリア人の愛人からのもので、荷物の中身は大量の未公開書簡だったという。 ところでこのボネット氏自身も、実はウルトライスタの子孫にあたる。彼の大伯父が新聞記者かつ詩人のはしくれで、スペイン北部の小さな地方都市に住み、ろくに売れない文芸雑誌を発行し、詩を発表していたのだとか。「幼いころから父や親戚がこの運動の話をするのを聞いていて、だからぼくにとってウルトライスモは、いちばん身近な前衛運動なんだ」とボネット氏。それにしてもなんだか彼の交友関係、ウルトライスタの子孫たちで作る同窓会のようなノリではないか?…… こういう人間関係というのは、たとえばシュルレアリスムや未来主義の場合にも、あることなのでしょうか? どなたかご存知でしたらお教えください。 「パリの前衛主義者にとってのモダニティの象徴はエッフェル塔。マドリードに住んでいた詩人たちにとってのエッフェル塔は、さえないことに、町外れに住むカンシーノス=アセンスの家へ行く途中にある陸橋だったんだ。それも一部分、木造のね。……ウルトライスモは、未来主義・ダダ・ドイツ構造主義など、いろいろな「イズム」のカクテルだけど、都市の下町の喧騒にこだわって、それを表現しようとした姿勢なんかは、ウルトラ独自のものだと思うよ」などなど、機関銃射撃のごとき勢いで話しつづけるボネット氏。フェルナンド・ディアス・プラッハの、大ベストセラーとなったスペイン人論『スペイン人と七つの大罪』に曰く、「スペインにおいて上手な話し手とは、息継ぎをせずに呼吸できる人のことである」。まさに、息継ぎせずに話しつづけてくれた――しかも終始、上機嫌で!――2時間であった。IVAMからの帰り道、もうすでに日はとっぷりと暮れていて、椰子の木に飾られたイルミネーションが美しく輝き、いかにも地中海沿岸の地のクリスマスといった風情をかもしだしていた。 鈴木 雅雄 この世界にもはや詩人の居場所はないと言って、ゲラシム・ルカは命を絶ったらしい。つまり生きている私たちは詩人ではありえないのだ。 しかしゲラシム・ルカの異様な存在感は、そんな言葉を口にさせてしまう力それ自体にはない。多かれ少なかれ詩人を神話化するそうした語り方が、当の詩人にとってなんの価値も持たないであろうと作品を見るだけで思えてしまう、それこそ驚くべきことではなかろうか。ゲラシム・ルカはあらゆる幻想の外にいる、なぜかそんなふうに思える。 今回の研究旅行でゲラシム・ルカ夫人のミシュリーヌ・カッティ氏を訪ね、4時間以上にもわたる会見の中で得られた情報を、だから以下ではいわゆる旅行記の体裁で装飾することなしに、なるべく客観的に報告したいと考える。 ●ゲラシム・ルカという名前について。これが本名でないことはわかっていたが、ゲラシムがファースト・ネーム、ルカがファミリー・ネームなのではなく、たとえばマン・レイという名前と同じように、一まとまりのものであるらしい。(辞書に載せる場合にもGで配列するのが正しいのだろう。) ●ルーマニア時代、無数のペン先を使ってただ一冊だけ作られたとされる詩集Quantitativement aimeeについて。この数十ページの詩集は、どの見開きも左ページに数行の詩句、右ページにペン先を糸で紙にくくりつけて作った様々な形態、という構成になっている。ペン先の作る形態は何かを型どったものではなく、その本数や配列については夫人も、ゲラシム・ルカ本人にしかわからない秩序があるのだろうと言っていた。またこの詩集は、二冊で一組のものとして作られており、その二冊目の方は別の誰かの手許にあるらしい。ただしそれがどういう人物であるか尋ねるのは、礼を失することになるようだったので控えた。 ●52年の渡仏以後における、ゲラシム・ルカとシュルレアリストたちとの関係について。この点に関しては相矛盾する記述が多いが、カッティ夫人の話では、決して断交状態といったわけではないらしい。ブルトンとも一定の交渉があり、それ以上にエリザ夫人とは親しかったとのこと。またゲラシム・ルカがフランスに渡った頃、シュルレアリスム周辺で出会った作家のうち人物・作品ともにもっとも高く評価していたのは、スタニスラス・ロダンスキーとジャン=ピエール・デュプレーであるらしい。 ●ゲラシム・ルカは友人たちとの付き合いの中で様々の遊びを発明したが、そうした中で次の遊びは特に注目すべきものと思える。(1)数人の参加者のうち一人を当事者(sujet)と決め、(2)その人物になんらかの品物(objet)を持たせて写真に撮り、(3)そのobjetを持ったsujetをながめて、残りの参加者それぞれが題名をつけていく。夫人の見せてくれた資料には、この遊びの手順をしるした文面、実験記録、またその際に撮られた写真が含まれていた。 互いの体を装飾しあうというルーマニア時代の遊戯をやや連想させるとともに、名前をつけるという行為によって、題をつける本人のファンタスムを外在化するだけでなく、参加者どうしの精神的関係を巻き込んでいく遊びであり、O.O.O. (objet objectivement offert = 客観的に贈与されたオブジェ)などと同様に、シュルレアリスムの様々な活動に間主観的次元を付け加えていくゲラシム・ルカの恒常的な態度がはっきりとうかがえる。 ●キュボマニーについて。今回の最大の成果は、ゲラシム・ルカがキュボマニーを、一生にわたり、しかもその時期ごとに異なったパターンで製作し続けたことがわかった点であろう。 非常に大まかに捉えるとキュボマニーは、40年代のルーマニア時代、60年代、80年代の三つの時期に作られた。『量子の饗宴』に代表される40年代のそれは、合宿の発表の中で簡単な説明をした通り、たしかにある意図を持って製作されてはいるものの、一見して配列の意図がわかるようなことはないが、後のものではより構成的になっていく。ゲラシム・ルカはキュボマニーの展覧会をかなりの回数開いたことがあって、買われて散逸したものも多いらしく、夫人の手許に残っているのは一部にすぎないようだが、80年代に作られた詩人晩年のものはかなりまとめて見ることができた。それらからおおむね次のような整理が可能のようである。 60年代以降のものでは、分解の素材としてよく知られた絵画の使われる場合が多く、出来上がったキュボマニーからでもそれがどんなタブローの一部分か見抜くのはたやすい。したがってもとの画面を頭の中で再構成できてしまうのだが、実際のキュボマニーを見ると、切り取る部分の選択とその組み合わせ方によって、もともとの画面が注意を引こうとしていたはずの部分とは違った箇所に、見る側の欲望を差し向けようという意図が読み取れる。夫人は、「詩人の意図を裏切ることになると困るが」と断りつつも、40年代のキュボマニーは単に挑発的なものだが、以後のそれは、同時に使われた絵画へのオマージュという側面も含むように見えると語ってくれた。おそらくこれは、見るもののほとんどが抱く印象を率直に代弁する意見であろう。 70年代頃の一時期、ゲラシム・ルカは点描のデッサンに移っていたが、これはきわめて高い集中力を要する緻密な仕事であるため、視力・体力の衰えつつあった80年代になって、もう一度キュボマニーに戻ったようだ。その後のキュボマニーになると、さらにいくつかの特徴が付け加わる。一つは、同じ断片(あるいはほとんど同じ断片)を一つの画面の中で2回以上使うという手法である。これによって画面は非常に明確なリズムを与えられるが、また同時に、二枚並びつつもほんの少しだけ異なった二つのイメージは、見るものの欲望をさらに戸惑わせる効果を持つように思える。さらに、一人の人物像の中心部分を省略してやせ細った顔を作り出す手法も複数の作品に見られ、50年代にシュルレアリスム・グループの中でロベール・ベネイユンが製作した「イマゴモルフォーズ」などとの共通点も見つけ出せるだろう。 キュボマニーのすべては、画家であるカッティ夫人の作った黒い枠板の上に浮き出るような形で取り付けられており、裏には使われたタブローの作者の名(アングル、スルバランなどの名があった)と、作品に付けられた題名とがしるされていた。 これら後期のキュボマニーの多くは、どれも「美しい」という形容をためらわずに使えるような作品だが、それらにあっても欲望の操作、ないし生産といった40年代以来の問題系が存続しているか否か、また存在しているならいかなる形でか、私たちは考え続けていくことになるだろう。 カッティ夫人は、いまだにゲラシム・ルカと二人で行った場所には行けないと語ってくれたが、詩人の生涯や作品製作の細かな手順について次々と質問し、メモを取るといった作業のできる状態ではないのだと思う。にもかかわらず、次から次へと伝説的な書物や作品を引っ張り出して見せてくれた夫人に深く感謝したい。詩人の現代社会に対する激しく悲観的な認識に触れたとき夫人は、「彼は明晰のゆえに死んだのですil est mort de lucidite」という表現を使っていたが、たしかにいわゆる絶望によるそれでも自己を完成させるためのそれでもなく、明晰であるがゆえの限りなくさめた自死というのも存在するのかもしれない。とぎすまされた倒錯性によってあらゆる幻影を無効化していくこの言葉の群について語ることに、私たちは何度でも失敗し続けていく義務があるように思える。 (付記) 今回の滞在中には、このほかにもシュルレアリスムに関係する多くの研究者・作家に面会しました。ピエール・リヴァース氏、フランソワーズ・ルヴァイアン氏には遅くとも今年の秋には人文書院から出版されるはずの『シュルレアリスムと民族学』(仮題)への執筆を依頼し、Equinoxe誌で実現する見込みのシュルレアリスム特集には(「3次元のシュルレアリスム」というテーマの予定)、せりか書房の『シュルレアリスムの射程』のときと同様ジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロン、ジョルジュ・セバッグ両氏からの寄稿をお願いできることになり、またこのほか数人の執筆依頼者のメドも立てることができました。これらが完成した折には、是非御一読いただければと思っております。 野坂 政司 科研の旅費による出張で、2月9日に成田を発って、2月17日に成田に帰るという短い日程で、アメリカ合衆国のカリフォルニア大学バークレー校のメディア資料センター(以下、センターと略記)を訪れました。 このセンターには、人文・社会科学分野、科学技術分野のさまざまな資料が、オーディオ、ビデオ、CD、DVD、スライド、コンピューター・ソフト、文書テクストCD-ROMなどの記録媒体によって収蔵されています。ここを訪問した私の目的は、このセンターの収蔵資料のなかでも充実したものであるビート・ジェネレーション関連の映画、映像資料をできる限り調査すること、および、このようなメディア資料を活用した研究方法に関してセンター長のゲイリー・ハンドマンのレビューを受けることでした。滞在したのは1週間という非常に短い期間でしたが、私がここで得たものから二つのことについて簡略にお知らせしたいと思います。 一つは、収蔵資料に関するウェッブサイトでの情報提供のあり方についてです。このセンターにある資料の範囲や内容、資料に関する解説、資料利用案内などに関しては、インターネットによる検索を通じて訪問する前に承知していました。それによって、ビート・ジェネレーション関係の映像資料が充実していることを知り、ここでの調査をするきっかけとなったわけです。 ここの資料は、授業などでの利用以外は外部への貸し出しをしないので、利用がセンター内での閲覧に限られています。閲覧の申し込みの具体的手続きは、自分が見たい映像資料の整理番号をカウンターで係の人に伝えるだけです。資料の整理番号については、カウンターのすぐそばに、検索用のコンピューターが2台ならんでいて、そこで番号を確認できます。私の場合は、ウェッブサイトからビート関係資料を事前にダウンロードして、自分が閲覧したいものをあらかじめ確認しておきましたから、センターで検索する必要もなく、自分のファイルからチェックしていた映画の番号を次々と伝えるだけで済みました。 実際の閲覧がセンター内に限られるという制限は、私見では、一つの分野の関連資料を系統的に広く収蔵・保管していることの意義に比べると些細なものでしかありません。その利用制限の問題性は、コピーライトの問題でもありますが、長時間の映像のデジタル保存とインターネット上での配信にかかわる技術と経費の問題でもあります。そのような現状において、このセンターの運営は、ウェッブサイトによるきめ細かな情報提供を十分に活用したものとして注目すべきものです。 さてもう一つは、このセンターで閲覧した興味深い作品です。収蔵資料の中心でもあるビート・ジェネレーションの作家・詩人たちのドキュメンタリー・フィルムは、これまでに見ているものが多く、今回は対象外とし、同時代の映画に焦点を合わせました。短い日程のために少数の作品しか見ることができませんでしたが、ヨナス・メカスのLost, lost, lost (1949-1963/1976)、同じくメカスの作品でアレン・ギンズバーグの朗読が使われているGuns of the Trees (1962)、シャーレー・クラークのThe Connection (1961)、ジョン・カサヴェテスのShadows (1957-1959)、ロバート・フランクのPull My Daisy (l959)、ロン・ライスのThe Queen of Sheba Meets the Atom Man (1963/1982)、ジャック・スミスのFlaming Creatures (l963)などが、強く印象に残りました。特に、メカスのLost, lost, lostは、178 分の長い作品で、見るだけでもこちらのエネルギーを要求されるフィルムでしたが、メカスがアメリカ合衆国に来た翌年にあたる1950年の記録のなかで、知人のパーティーに出席した時にウェールズの詩人ディラン・トマスが話題に上ったことを伝える僅か5、6秒のシーンがあり、アメリカにおけるトマスの受容の広がりの範囲の一端が明示されていて、思いがけない嬉しい驚きでした。 上記の各々のフィルムの詳細については触れる余裕がありませんが、いずれも実験的作風のもので、50年代、60年代の映画作家の志向性がどのようなものであったかをよく示していて、ビート・ジェネレーションの作家・詩人たちが登場した社会の精神風土を解析してゆく際の、貴重な材料になるということを認識しました。 この機会を与えられたことに感謝の意を表して、簡略ではありますが報告といたします。 《モダニズム研究会講演・発表要旨》 1998年12月21,22日 一九九八年の年末に神戸で開いた合宿に、長木 誠司氏と岡 真理氏をお招きし、講演をいただいた。そのおおよそをここに報告したい。それぞれの講演のタイトル、日時は以下のとおり。 ・21日午後四時より 長木 誠司 「二〇世紀音楽における声のアヴァンギャルド」 ・22日午後三時より 岡 真理 「アラヴ近現代文学における「小説」の導入をめぐって」 長木さんはまず、西洋音楽史における声楽と器楽の流れから話をはじめた。氏の説明によると、西洋音楽は長らく声楽中心であったのが、ルネサンスをさかいに器楽に移り、十九世紀にその頂点を迎える。そうしたなかで従来の声楽、すなわちリートは市民社会を背景にしてサロンで発展し、十九世紀後半にはオーケストラの伴奏をともなった演奏会という形式が確立する。 ところが二十世紀に入り、そうした器楽の興隆を経たうえでの<声の復権>がおこる。それは長木さんによれば、十九世紀的な典型的市民社会の溶解と重なる動きであるという。 それまでのリートはテキストに内在する音楽性を重視するものであったが、新しい音楽はそのような音とテキストの協和関係、同調関係を拒否し、そこに不協和で非同調的な緊張関係を導入した。かくして二十世紀音楽における声楽は、音程に密着した<歌>、それから離れる<語り>、さらには<語り>にかならず付随する意味からもはなれた<声>そのもの、この三者の間に張り渡された緊張の上で振動することとなる。そしてそのような音楽は、楽譜から離れればはなれるほど、歌手の自発性と身体性に依拠し、あるいはそれらを要求し引き出す音楽となる。 長木さんはおおよそこのような見取り図を我々に与えてくれた後で、シェーンベルクからベルクにいたる<語る声>の台頭、未来派、ダダの音声詩にはじまる意味論的離脱の流れなどを、実際の演奏の様子をCDなどで紹介しながら、系統立ててかつユーモアを交えて語ってくれた。シェーンベルクについて、長木さんは《モーゼとアーロン》を例にとり、作曲家が<語り>を<歌>よりも優位に置いたことを説明した。氏によれば、アーロンの台詞は<歌>でうたわれ、真実を伝えるモーゼのそれは<語り>で語られるのだ。 意味論的離脱というのは、未来派、ダダ以後、歌手の発する<声>に様々な「雑音」が取り入れられ、<語り>から逸脱する傾向があらわれたものを指す。講演では、この流れに属する多くの実例を聞かせてくれて、楽しいひとときであった。 シュールホフの《ソナタ・エロティカ》(参加者は憶えておいででしょう、AVヴィデオの女優の喘ぎみたいな演奏です)には驚いた。このような実験的試みが一九一九年に行われていたのだとは。筆者が学生の時ジョン・レノンとオノ・ヨーコによるセックス音楽(?)が発表されて話題となったが、あれは六〇年以上も遅れた、しかも商業主義的試みだったというわけだ。とまれ、この一例で、二十世紀音楽の<声>は、従来なら雑音として歌唱から排除されるしかなかった「溜め息、呼吸音、喘ぎ、叫び、わめき」等を積極的に取り込んだことがよく分かった。また、同じ作曲家による《シンフォニア・ゲルマニカ》もすごかった。あんなに怒鳴ったような発声法で歌手ののどはつぶれないのだろうか。それから、隣に座っていた澤さんが「《君が代》でこんなことできないよ」とつぶやいておられたのが印象的だった。それにしても度肝を抜かれたのがベリオの《セクエンツア》である。言葉をシラブルではなく音素のレベルにまで分解し、その音素の一つひとつに音を与えるのだ。しかも与えられた音は百分音符(?)かと思われるほど途轍もなく短いそれの連なりであったり、かと思うと一瞬にして全音符の長さに転換したりと、じつに精妙なものであった。同時にそれは歌手泣かせの一曲であり、長木さんによれば、我々の聞いた歌手(名前は失念した)にして初めて可能なほど演奏の難しい曲とのことである。 講演後、活発な質疑応答がつづいた。大平さんが1)ピカソがアフリカ美術から影響を受けたように、二十世紀音楽においても第三世界の影響はなかったのか、2)たとえばピカビアの夫人はシェーンベルクの弟子であったが、音楽家、画家、作家などのグループ活動はどうであったか、と二つの質問をした。これに対し、長木さんは、1)の点は録音技術が未発達であったために直接第三世界の音楽を聴いた可能性は少なく、その意味での影響はあまり考えられない、2)についても否定的なお答えであった。最後に聴講に訪れていた神戸市外国語大学の崎山さんが三つの質問をしたが、失念してしまった。ご寛恕のほどを。 二日目に行なわれた岡さんの講演はじつにアグレッシヴかつ明快なお話であった(はじめ西さんは「攻撃的」と岡さんを紹介され、これに対し岡さんは、自分の“アグレッシヴ”は「積極的」と訳すべきで、西さんの訳は誤訳である、と笑いながら応じた。やがて講演の途中で西さんは自分の過ちを認め、「戦闘的」と言いかえた。このやり取りをもって、氏のお話の様子がよく伝わるのではなかろうか)。 氏によれば、ヨーロッパとは本来遅れた文明であったはずであり、ルネサンスに始まる近代化はアラブの文明を手本としたものであり、アラブがその起源であったはずなのだが、ユーラシア大陸の片隅という特殊な地域で展開したそれは、やがて起源を忘れ、自己を普遍的な文明だとカン違いして世界を席巻しはじめたのである。したがって、その特殊な環境下ではぐぐまれた小説という文学形式もまた、本来きわめて特殊な地域の認識形式にすぎないはずなのだが、あたかも普遍的それであるかのごとく、この世界に流通している。つまり岡さんは、他の文明がヨーロッパに学ぶという従来的な「近代化」認識のありかたとは逆に、そのようなローカルな近代化を超えて、他の文明から「ヨーロッパが学ぶ」という人類史的近代化の組み直しが必要であるというスタンスに立っているのである。そしてそのような「明快かつアグレッシヴ」な視点からアラブ近代小説の歴史を読み直そうというのが、今回の講演の主題であった(岡さんはその意図をRecontextualizing of Arabic Modern Novelsと説明された)。 エジプトはナポレオンの占領によって初めてヨーロッパ的近代世界と遭遇し、明治以降の日本がそうであったように近代化、西欧化の道を歩みはじめる。その過程において、軍隊養成学校と同時に翻訳者の養成学校が数多く設立され、そこで訓練を受けた翻訳者らによってヨーロッパの小説作品がアラブ世界に紹介されるようになる。つまり「翻訳」は、ヨーロッパ的国民国家の建設という「普遍化」プロジェクトの一環としてアラヴ世界に導入されたわけである。 こうして当初、エジプトではフランスをはじめとするヨーロッパの小説が翻訳や翻案という形で大量に持ち込まれるわけだが、ところがアラビア語でアラブ世界の小説を書こうとすると、そこには小説的文体を確立する困難、三人称によるnarrativeの問題、世界認識の問題等、さまざまな困難があった。ただし岡さんはそうした困難の克服、解決、解消を説話形式の発展と見るのではなく、むしろ起源における異質性と不自然の忘却であり、説話形式の狭隘化、一面化と見て、別な物語の可能性を探る視点からその展開を眺める。 やがてエジプトはムハンマド・タイムールの登場をへて、ターハー・フサイン(1889-1973)、タウフィーク・アル=ハキーム(1898-1987)などの「近代派」の時代となる。彼ら「近代派」の特徴はフランスに留学し、西欧文化をたっぷりと吸収して帰国、authentic なエジプト文明を追求する点にある。つまり彼らは近代化の半面であるナショナルなもの、すなわちエジプト固有のものを問題とし、自国文化を地中海文明の文脈に位置づけたり(フサイン)、起源として古代エジプト文明を強調(ハキーム)するのだ(岡さんは古代エジプト文明はイスラム以前の異民族の文明なのだから、ここにも起源の忘却というか捏造があると指摘する)。したがって彼らの描く小説は、農民たちの近代化、国民化をテーマにする。例えば『田舎検事の日記』(ハキーム)では、近代世界を代表する検事と、そうした世界を教えられてもどうにも理解できない農民たち=サバルタンとの絶望的ディスコミュニケーションがユーモラスに描かれるという具合だ。 岡さんによれば、次の世代の小説家ユースク・イドリース(1927-1991)は彼らと対照的だ。モダニスト作家はヨーロッパ文明を普遍と考えるEuro-(ethno)centristsであり、あくまで農民たちを教化の対象と見なしたが、イドリースは革命をなし遂げた民衆に自己の位置を確認するからだ。イドリースによれば、民衆=サバルタンは教化されるべき対象などではなく、文明の達成者であり、作家、知識人こそが彼らから学ばねばならないのである。だから『日記』では検事が農民のことを説明するが、彼の小説ではサバルタンが自身の言葉で自己を語るのだ。したがって小説は口語表現に満ち、sexualityの表現が頻出することになる。 だが、岡さんによれば、そのようなイドリースでさえもが、近代国家の視線を分有している。氏はそれを『アル=ハラーム』(「禁忌」の意)を例にあげて説明する。この小説は極貧の百姓女=サバルタンが強姦され、妊娠し、誤って子供を殺してしまうという内容で、ホーソーンの『緋文字』のモチーフおよびフレームを借用した小説だが、主人公の女が自己の「罪」を恥じる言葉を発するとき、十七世紀ニューイングランドのピューリタン的価値観が強引にエジプトの百姓女というサバルタンに押しつけられていると氏は読むのだ。 岡さんによれば、イドリースにいたる男性作家は皆、究極的には国民国家の視点を共有しているのであり、彼らの描く小説は、サバルタンを搾取し、とりわけサバルタンの女はそのsexualityの表象を歪められるのだ。かくして氏はアリーファ・リファアトのような第二世代の女性作家、サバルタン的女性作家の語りの中に男性作家に対抗しうるcounter-narrativeの可能性をみるのである。 講演の後、質疑応答が活発におこなわれた。まず、加藤さんが小説をきわめて特異特殊な認識形式だとする岡さんの見方に賛同を示し、小説形式の発展をルポルタージュ・リアリズムとピカレスクの二つの流れから説明した。また、小畑さんが小説の普遍性は科学の普遍性によっているのだと説くと、西中村さんが異議を唱え、小説の普遍性は歴史の普遍性にもとづいているのだと反論した。当然議論に決着のつくはずはなく、にぎやかな論戦は次の機会に持ち越された(笑)。 以上、ささやかながらお二人の講演をうかがった報告としたい。 文責 三宅 ルーマニア・シュルレアリスムについて----ゲラシム・ルカを中心に 鈴木 雅雄 両大戦間の中央ヨーロッパ(特にチェコ、ユーゴスラヴィア、ルーマニア)でシュルレアリスムに関わった詩人・芸術家を見ると、シュルレアリスムに接近する以前、構成主義的あるいはフォルマリズム的な一時期を経てきている場合が非常に多い。フォルマリズム的な思想の導入が60年代以降でしかないフランスからこの現象を見ると、そこには何か逆説的なものがあるように思えてくる。仮に芸術家自身がフランスに対して、自分たちの位置を周辺とみなす意識を持っていたとしても、別の文脈では、なぜこの新しい思想をくぐった上でなおあえてシュルレアリスムという後進的な思想を選んだのか、という問すら立てられるかもしれない。ただ今のところ、なぜフォルマリズムからシュルレアリスムへ移行するのか、という問に直接接近する準備がないので、とりあえずルーマニア・シュルレアリスムの中心にいたゲラシム・ルカに話を絞り、彼の作業がシュルレアリスム全体の中で持つ位置を測定することで、第一段階としたい。 ルーマニア時代のゲラシム・ルカの思想(彼は1952年以降はフランスで活動)の中心には、「非=オイディプス」という神話的な形象が存在する。たとえば母親の所有を断念するといった一つの「傷」が欲望を生み出すという発想、欲望は決して満たされない「欠如」を前提するという発想に、ゲラシム・ルカは断固として挑戦するのだが、このように失われた何かに規定されるのとは異なった欲望のあり方を体現する存在が「非=オイディプス」である。 概念的な定義が与えられているわけではないが、ゲラシム・ルカがイメージしているものは、たとえば「非=オイディプス的キュボマニー」と呼ばれる彼の特殊なコラージュを見るとよくわかる。それはある絵画や写真を、多くの正方形の断片に切り離し、それを組み直して作られる一つの画面である。それらの断片は一見まったく恣意的に並べられているように見えるが、そこからもとになった画面を再構成しようとするといくつかのことがわかってくる。まず切り離してできた正方形の断片は、すべてが使われたわけではない。ではどのような基準で選択されているかというと、どの断片にもたいていはそれと隣り合う断片があるようなやり方で、しかし同時にそれらをつなぎあわせても一つのオブジェ、一人の人物の全体像が再構成されはしないような選び方がされている。つまりキュボマニーは見るものを、失われた全体の再構成へと一端は誘いながら、その再構成の欲望をじらしまた裏切って、その欲望が本来ありえない部分どうしの結合を生み出し、限りなく逸脱していくよう促すのである。おそらくここに、欲望をその端緒としての「欠如」からそらし、いわば「非=オイディプス」化しようとするゲラシム・ルカの戦略がある。 よく知られた「詩的どもり」の手法についても同じようなことが言えそうである。ここで詳細に展開する余裕はないが、この手法は、発音されようとする語を、それが意味するはずの対象から限りなくずらし続け、多くの詩人が夢想したように音と意味のずれを修復するのではなく、逆に壊し続けることで、欲望に新たな水路を作ろうとする作業のように思える。そもそもこうした言語破壊作業の発端に位置するものとして有名な詩編「情熱的に」は、一種の戯曲『アンフィトリテ』に組み込まれたものであったが、これは女主人公と彼女を愛する(?)ものたちの肉体が次々と分解されていく異様なシナリオであった。肉体を統一的な対象としてではなく、部分欲動の対象として、いわばフェティッシュの総体として見るような態度が演出されているのである。「私はおまえを愛している」という十全な愛の表現を口にできないものが、その達成できない欲望を無理矢理作動させようとして別の欲望を作り出していく、それが「情熱的に」という詩の過程だったのである。 こうしたゲラシム・ルカの選択は、シュルレアリスム全体の中で非常に重要な価値を持ってくる。シュルレアリスムにはもともと、人間精神にその本来の可能性を返してやろうという意図と、それを自然の状態から逸脱させ新たな形態を与えようとする意図との両方が曖昧なまま混在しているように思えるのだが、前者を「自然」の立場、後者を「反=自然」の立場と呼ぶとして、ゲラシム・ルカは「反=自然」の立場をそのもっとも極端な帰結にまで延長していると言えるのではなかろうか。いわば彼はシュルレアリスムの二つの方向性の一方を(しかもより多くの可能性を持つと私たちには見える方向性を)誰よりも激しく開拓したのである。そしてはじめに要約したようなルーマニアという位置の特殊性を考えるなら、それは主体的な衝動の解放という思想と客観的に存在する形態への配慮という二つの思想がぶつかった場所で生み出された、モダニズムのきわめて特殊な発現形態であり、様々なモダニズムが織りなす複雑な布置の中で、その全体を新たな視点から捉えなおすように促す、一種の特異点をなしているようにも思えるのである。 *野坂 政司さんの研究発表要旨は次号に掲載いいたします* 最近、濱田先生の御著書、米川先生のご翻訳が相次いで出版されました。このことに刺激されまして、不完全なかたちではありますが、会員の皆様の研究活動の成果を掲載することに致しました。網羅的なリストをつくると膨大なものになることは目に見えておりますので、「著書、翻訳書、国際会議での講演・発表、美術展等の開催」に限ることにいたしました。恣意的な基準をどうぞ、お許しください。また、時間的制約のため、全員からデータを集めたわけでないこと、お詫び申しあげます。次回には完全版を掲載したいと思いますので、あまり統一されておりませんが下記の形式(簡潔をもって良しとします)をご参考に、情報を編集者までお寄せください。 安藤 哲行 稲賀 繁美 大平 具彦 小畑 精和 五十殿 利治 亀山 郁夫 清水 賢一郎 鈴木 雅雄 西 成彦 西中村 浩 濱田 明 村田 宏 村田 靖子 三宅 昭良 米川 良夫 和田 忠彦 去る2月22日、早稲田大学大隈会館内楠亭にて、各メンバーから寄せられた執筆テーマ(19-23ページを参照)をもとに、それをどう本にまとめてゆくかについて、第一回の編集委員会(大平、三宅、和田、西、高橋の5名の委員全員出席)を開きました。この話し合いの中心は、各人のテーマを、本の「章」立てとしてどのように共通主題別にグルーピング構成するかということでした。各人のテーマを見ればおわかりいただけるように、それはお互い深く関連しながら実に多岐にわたっています。それぞれを満たすように包括的でありつつ、かつ有機的連関やアピール性を考えねばならず、色々と苦慮しましたが、種々の議論の結果、次のような基本方針を決めました。 ◇章のテーマとして、下記の5本を立てる。 章構成は以下の通りです。 1.20世紀における表現とディアスポラ状況 2.越境と文化アイデンティティー 3.モダニズムと権力 4.モダニズム/アヴァンギャルド表現の再検証 5.表象からの越境 ところで、今回の統合的テーマは(研究課題も「総合研究:20世紀アヴァンギャルド諸潮流と表象文化の現在──モダンから越境へ」とあるように)、「越境」ということでありました。それとの関連で言うならば、大筋として、1はナショナルなものからの越境、2は自身の文化からの越境、3は政治権力からの越境(あるいはそれとの相剋、離合、共犯)、4は「モダン」そのものからの越境、5は(タイトル通り)表象からの越境、といふうになるでしょうか。(もちろん、単純に「越境」だけを措定すれば済むものでなく、そこには複雑な諸々の作用が働いていて、そこにまで分け入ってゆくのがわれわれの研究のもうひとつの眼目なのですが。) というわけで、以上の章立てを一応ご理解いただいた上で、 それをもとに、編集委員会の方で章の構成の基本案をつくり、2年目はそれを土台にして、研究の深化(講演、内部シンポ、公開シンポ、雑誌投稿etc.)をはかってゆきたいと思います。 以上、よろしくお願いいたします。 代表 大平 具彦 ●各メンバー執筆テーマ一覧(アイウエオ順 ・書きたいテーマ ・自由意見) ◆安藤 哲行 ◆石川 達夫 ◆稲賀 繁美 ◆井上 明彦 ◆江田 孝臣 ◆エリス 俊子 ◆大石 紀一郎 ◆大平 具彦 ◆小畑 精和 ◆五十殿 利治
◆加藤 光也 ◆亀山 郁夫 ◆河中 正彦 ◆木村 榮一 ◆坂田 幸子 ◆澤 正宏 ◆清水 賢一郎 ◆鈴木 雅雄 ◆鈴木 将久 ◆高橋 世織 ◆田中 純 ◆長畑 明利 ◆西 成彦 ◆西中村 浩 ◆奴田原 睦明 ◆野坂 政司 ◆濱田 明 ◆三宅 昭良 ◆村田 宏 ◆村田 靖子 ◆米川 良夫 ◆和田 忠彦 |