モダニズム研究会会報 |
vol.2 |
まずは、資料を求めて 澤 正宏 『モダニズム研究』(思潮社、1994・3)が刊行されてから3年が過ぎた。私は日本のセクションで参加したが、その間、1920年代から1930年代にかけての日本現代文学におけるモダニズム表現の研究、とくに詩の研究が立ち遅れていることをあらためて痛感してきた。幸いに、エリス俊子氏が、「日本モダニズムの定義をめぐる問題」に開かれた見通しをつけてくれたが、個々の詩誌や詩人にみられる表現の特異性の探究はまだまだ殆まったばかりだといってよかろう。 いま、とくに記述した期間における日本のモダニズム詩を新たに研究してはいないが、研究の原点にかえって、この期間に現われた詩の雑誌(資料)を確認し、収集できれば収拾し、この内容を記録していこうという仕事を共同でしている。この仕事をとおして、絶望視していたモダニズム系の詩誌の何種類かに、あるいは何冊かに出会えたことは驚きであつた(詳細は「探索・モダニズム詩誌」<『日本近代文学』第56集、1997・5参照)。今月(1997年6月)で仕事の総量が半分を超えたわけだが、そういう意味で、不安を抱えながらも思いきってこの仕事をスタートさせてよかったと考えている。 現在、この仕事は『現代詩誌総覧』全7巻(日外アソシエーツ)として進行中で、既に第4巻「レスプリ・ヌーボーの展開」(1996・3)、第1巻「前衛芸術のコスモロジー」(同・7)、第2巻「革命意識の系譜」(1997・2)、第3巻「リリシズムの変容」(同・6)が出されている。まずは、資料を求めてというのが私の近況てある。他には、準備はできていたのだが、2年間放っておいた「西脇順三郎<Ambarvalia>作品論集成』全2冊(大空社、同前)が出来た。しかし、ここでも日本のモダニズム詩研究の遅れを実感した。またこれからのことだが、目下検討中の、日本のシュールレアリスムコレクションの企画に参加せてもらえそうである。(1997・6・25) ストックホルム探訪記――「バレエ・スゥエドワ」を求めて 村田 宏 昨年(1997)、晩秋のロンドンでスウェーデンの国民的画家カール・ラーションの展覧会(ヴイクトリア・アンド・アルバー卜美術館[V&A])を見る機会に恵まれた。 ラーションは、多少とも美術に関心のある方ならご存知だろうが、可憐な少女や無邪気な子供たちを題材に忘れがたい数多くの作品を残した画家である。会場には、油絵や水彩はもとより、ラーションが愛したスウェーデン中西部スンドボーンにある自邸の居間や食堂、寝室等が再現され、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の先導者モリスの理念に共鳴したラーション自身の「美と生活の融合した理想郷としての家」の様相がわかりやすく、かつ説得力をもって示されていた。 展覧会を一巡した筆者は、V&A内にある国立美術図書館で、同僚から頼まれていた資料探索を行い、必要箇所のフォト・コピーが出来上がるまでの間、たまたま講堂で開かれた「カール・ラーションの遺産」と題する講演会に参加してみた。講師を務めたスウェーデンの女性研究者は、ラーションの登場によって、スウェーデンの美術やデザインが、自国の伝統、いわば「スウェーデン性(Swedishness)」にいかに自覚的になったか、そして今日の生活の隅々にまで、ラーション芸術がいかに豊かに息づいているかを熱っぽく語って聞かせた。展覧会のタイトルに言う「Carl and Karin Larsson:Creators of tbe Swedish Style」の意味の一斑が理解できたように感じられたが、その印象深い話を聞きながら、筆者は、数日前に訪れたストックホルムの美術館の階段室を飾るラーションの壁画のことを思い出していた。 筆者は、ある用務を携えて、オスロの国立美術館に続き、ストックホルム国立美術館を訪れたのであったが、スタッフとの面談を終えた後、かねて聞き知っていたラーション作品と対面すべく階段室に足を運んだ。独特の明確な輪郭線の中に鮮やかな色彩をおいてゆく物語性豊かなその作品群は、魅力に溢れるものであったが、とりわけ、1523年6月24日(洗礼者ヨハネの祭日)にストックホルム入城を果たした祖国解放の英雄グスタフ・ヨヴァーサ?を主題とする歴史画は見事という他なかった。平和な家庭生活を主なレパートリーとするかに見えるラーションが、骨太で男性的な、いわば雄頸な構想画を措いていたことに改めて感銘を受けたものであった。ストックホルムの街のそこここに建つ歴代のグスタフ国王像は、極東からの慌ただしい旅人にさえスウェーデンの国家的自立の歴史を知らしめるに十分なものであったが、カール・ラーションも、こうした祖国スウェーデンに対する鋭い歴史意識を等しく抱懐していたと言えるのかもしれない。 こうして美術館との交渉が順調に進んだのみならず、ラーション作品にも直に接し得たことは、はるばるストックホルムを訪れた筆者にとって望外の幸運というものであったが、しかし、「北欧のヴェネツィア」と呼ばれるこの美しい水の都が筆者にもたらした収穫は、単にそればかりではなかった。実は、ストックホルムは、筆者にとって、もう一つ別な理由から、常に心にかかる都市であり続けていた。ディアギレフの「バレエ・リユッシェ(ロシア・バレエ)」と相前後して、1920年代のパリを席巻した「バレエ・スウェドワ(スウェーデン・バレエ)」の故地が、他ならぬストックホルムだったからである。 筆者は、このたびの「総合研究:20世紀アヴァンギャルド諸潮流と表象文化の現在―モダンから越境へ」の分担課題の一つとして、「美術と演劇:画家とバレエ・スウェドワ―アヴァンギャルドの実験室」なるものを提出しているが、このささやかな研究に着手する前に、是非とも訪れたいと考えていたのが、ストックホルムにあるバレエ・スウェドワゆかりの舞踏美術館(Dansmuseet)であった。氷点下に近い底冷えのする寒さの中、筆者が勇躍、その探訪を試みたことは言うまでもない。地図を頼りに市内の目抜き通りを北進し、何本日かの十字路を西に折れると、館前のチャップリンの人形(注1)が訪問者を招き入れる舞踏美術館に行き当たった。対岸の旧市街の王宮と対峙するように建つ壮麗な装いの国立美術館とは異なり、劇場の一角に設けられた美術舘は、思いがけないほど地味で控え目な佇まいを見せていた。実際、この日、開催中の「アフリカ:魔術的仮面」展の鑑賞者となったのは、おそらく筆者一人ではなかったろうか。筆者が、正午から4時までの開館時間の大半をそこで過ごす間、入館者の姿を目にすることは遂になかったからである。しかし、訪れる人も稀な展覧会場の寂しさとは裏腹に、筆者がそこで見出したバレエ・スウェドワ、あるいはパフォーミング・アーツ全般に関する資料の特異な豊穣さは、まさに予想に違わぬものであった。もちろん、資料の充実が、必ずしも良質の研究を保証するものでないことは卑近な真理だが、少なくとも、筆者の問題意識に発するバレエ・スウェドワ研究の基礎が、例えばパリの演劇専門の古書店で手に入れた幾つかの図書を別にすれば、この舞踏美術舘で入手した貴重な資料によって築かれることは騒いないように思われたのである。 筆者の主たる関心は、パリの前衛芸術家と「バレエ・スウェドワ」の芙術的交渉の有りように向けられており、今後は、細かい事実の検証と筆者自身の考察の枠組の構築に意を用いたいと考えているが、一つだけ、小文の文脈で指摘しておくべきは、「バレエ・スウェドワ」が、「スウェーデン性(Swedishmess)」という観点から、先のカール・ラーションの芸術とあながち無縁ではないということである。 それは、「バレエ・スウェドワ」が、スウェーデンの民俗音楽やフォークロアをその重要な霊感源としていたという顕著な事実はもとより、例えば、1923年に上演された、部族の存亡を賭けて自ら犠牲となる族長の物語を主題とする『生贅の森』といったバレエが明瞭に示唆するところである。というのも、『生贅の森』は、同じく飢饉からその民を救うために自らを生贅として捧げる異教時代のスウェーデンの族長を取り上げたラーションの作品《冬至の生贅》(1915)(注2)と著しい類縁性を帯びているように思えるからである。私見によれば、両者の間に単なる暗合以上の関連があることはほぼ間違いない。 ――「当時、私はスウェーデンの田舎を広く旅し、私たちが受け継いだ風俗習慣について偶然ながら研究することになった。私はすぐにスウェーデンの歌や踊りの大方に通暁したのだった」。「バレエ・スウェドワ」の主宰者ロルフ・ド・マレの残したこの言葉が端的に物語るように、スウェーデンの歴史と伝統を母胎とする「バレエ・スウェドワ」が、それでは、なぜ、パリの前衛たちと緊密にして実り豊かな関係を打ち立てたのか。それが、筆者の研究課題の一つの柱となることは、最早必然的な成りゆきであると言うべきであろうか。 (注1)瑣事ながら、この人形が、フェルナン・レジェの映画《バレエ・メカニック》中に登場するレジェ自身のデザインによるチヤップリンの人形に酷以していたのは、おそらく偶然ではないだろう。このことはまた別の機会に触れたいと思う。 (注2)ちなみに言えば、この《冬至の生贅》は、1915年にストックホルム国立美術館に設置されたものの、族長を全裸で描いたその表現がセンセーショナルな論議を呼び、1933年に美術館から撤去されるという不運に見舞われた。その後、複数の所有者を経て、87年には東京のコレクターの手に湊り、昨年、紆余曲折の末、ストックホルム国立美術館によって買い戻されている。ただし、この間、作品自体は、所有者の日本人から借り受ける形で美術館の壁面に飾られていた。 この夏は国際学会と称するものを 稲賀 繁美 この夏は国際学会と称するものを3つ梯子した。まず8月16日から22日にオランダのライデンで第15回国際比較文学会。つづいて27日から30日にはハンガリーのプダペストでヨーロッパ日本研究協会第8回国際大会、最後は9月6日から8日に英国ノルウイッチで開催された「日欧美術におけるマスターピース」と題する研究会。紙面の関係で気ままな感想を綴る。 国際比較文学会は、「文化の記憶としての文学」なるテーマのもと、英仏両語で8つの分科会が並行するのに加えて9つのワークショップが相乗りするという盛況。「記憶」は昨年アムステルダムの国際美術史学会でもテーマとされており、港千尋氏の著作も示唆するように、ここ数年、欧州知識人たちの固定観念。日本からの参加者はアメリカ合衆国の96名につぐ60名というのが公式発表で、3位オランダの49名を大きく上回った。全貌はもとより把握不可能だが、筆者は「ファン・ゴッホと文学」なるワークショップの組織を命じられ、日本からは圀府寺司による「ファン・ゴッホとロシア文学」、フランスからはナタリー・エニックの「ファン・ゴッホ伝説――事実、虚横、虚構仕立て」に加えて「テオドール・デュレ、黒田重太郎、豊子小嗤――東アジアにおけるゴッホ伝の変容」を報告した。本来はさらに4名の参加者を予定して奔走したのだが、巨大な学会組織にはつきもののトラブルに見舞われて、結果的にはいたってこじんまりとした分科会となった。とはいえ、芳賀徹氏が司会進行役を買って出てその場を盛り上げ、平川祐弘氏、大嶋仁氏をはじめとする質疑も充実し、親密で良い経験となった。 とっくに各国文学の枠は取り払われるご時勢であり、また比較文学とはそもそもそうした志向から生まれてきたはずのディシプリンながら、実際にはフランス語圏は痩せ細り、ただマグレプ文学をはじめとする旧植民地がらみのクレオール文学研究が突出している印象だ。皮肉といえば、少数派の文学に市民権が与えられた代償として、そうしたゲットーがかつての宗主国の軒を借りて縮小タコツボを並列させている嫌いがなくもない。せっかくアジア・ゲットーの壁を突破すべく設けられたアジアの Intercultural Studies のセクションも、蓋を開けると地元地域文学研究者以外の出席者は少なく、せっかく国際比較文学研究の今後について有益な提案があっても、それを聞かせたいアフリカや南インド、ラテン・アメリカの参加者は住み分けしてしまっていて、コンタクトが取りにくい。顔なじみと久闊を叙する機会とはなっても、なかなか新たな研究仲間を開発するのは困難になってきた。 つづくブダペストの学会は、大江健三郎も招待され、初日にもっぱらマサオ・ミヨシ、テツオ・ナジタとナオキ・サカイに代表される北米日本研究への賛同を述べる記念講演が、後日日本からの参加者たちのあいだで、床屋談義の種を提供した。ハンガリー大統領 H. E. Arpad Goncz ? は重訳ながら日本文学の翻訳者としても知られ、あとで専門家によるチェックが入る集団翻訳体勢と、ハンガリー語と日本語の同系性ゆえ、ハンガリー語訳のほうが中間項となった翻訳より日本語原文に忠実かも知れない、などという奇想天外な談話を披露。かつてはソ連の軍事関係の建物が入っていたという商業学校の白亜の御殿を会場とする学会はこれまた8つの並行セクションにラウンド・テイブルがつくというご多忙ぶり。文学は応募が多すぎて大半が積み残しとなったと仄聞したが、当方は視覚芙術とバーフォーマンス・アートという、実際にはもっぱら歌舞伎ばかりが話題になったセクションで、岩明均のマンガ『寄生獣』を「エスニック・クレンジングを批判するバラサイトもの」という角度からスライド付きで分析する、などというふざけた発表。昨年ホノルルのAAS(アジア研究協会)の年次会で宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のアニメと漫画を比較して、オウム事件から震災の世相を語り、はては瀬戸万博誘致計画を批判するという無茶をして味を占めたのの続編である。幸い組織者の Brian Powell はご子息が『寄生獣』に夢中だとかで関心を示してくれ、講談社に勤めていて、日本のオタク・サブ・カルチャーを研究している Sharon Kinsella とも知りあえた。 ブダペストで英国元皇太子妃事故死の報に接していたが、その国葬に重なり、ノルウイッチの学会は半日遅れのスタート。予定されていた日本大使ももちろん欠席。この学会は早い段階では「日本と西洋における傑作と巨匠の概念」といった仮題のもとにペイパーを応募していたので、「19世紀後半の日本美術史創成期における傑作と巨匠の認知をめぐる認識の食い違い」といった提案をしていたものだが、蓋を開けてみると日本からは、秋山光和束京大学名誉教授や高階秀爾西洋美術館館長など、鳴り物入りの有名研究者たちが目白押し。もっと若手の研究者の小規模な集会かと思っていたのでひたすら恐縮。なにしろこちらは日本美術史など、ド素人に過ぎない。John Onians と Nicole Roumaniere が組織したこの学会の舞台は、国際交流基金の援助で落成したセンツべリー視覚蓑術センターという巨大な航空機格納庫のような美術館。それがイースト・アングリア大学の広大な森に囲まれた湖の端に憩っている。 折からの関西研究学会から流れてきた何人もの日本人上方学者を含め、欧米の主要な日本美術研究者のみならず、Hans Belting、Michael Baxandall といった一流の美術史家まで揃った大盛況。小林忠、河野元昭、河合正朝の自称 "3K" の面々、masterpiece だけで mistresspiece がないのは面妖と啖呵を切る千野香織、Tim Clarkの司会の秀才ぶり、Andrew Watsky の竹生島の知られざる桃山装飾の再評価、Christine Guth の masterpiece ならぬ meibutsu へのおそるべき博識と、そこに西欧美術史とは異なった歴史観を読み込む批判的姿勢、当時の刑法解釈にまで踏み込んで黒田清輝の裸体画スキャンダルを読み直す渡辺俊夫、そして日本では名物を鑑賞すると「これはけっこうな絵でござる」となるが、この学会も「けっこうな学会」だったとやってヤンヤの喝采を浴びた、トリの辻惟雄氏の名演技。当方としてはディスカッサントの Peter Burke とハーヴァードの John Roenfiled から特にお褒めを頂戴したことを臆面もなく名誉なことに感じ、最終日、古城 B... での夕べの宴に酔いしれた。 スペインの小さな書店から 木村 榮一 昨年の四月から九月まで、マドリッドの東六十キロぼどのところにあるアルカラー・デ・エナーレスという小さな町で暮らしていた。この町は由緒ある大学都市なのだが、残念なことに本屋さんが二、三軒しかない。滞在中はその内の一軒のセルバンテス書店によく通ったが、この店はまことに狭くて、中は四、五十平方ほどしかなく、そこに本が天井まで所せましと並ぺられている。五十歳前後の店の主人はなかなかの読書家で、こちらからなにか尋ねるとたいていのことは教えてくれるし、嬉しいことに知らないことは知らないとはっきり言ってくれる。 いつだったか、スペインの現代作家のことが話題になったので、新聞などでは最近は小説がよく売れ、よく読まれているようですが、やはりいい作家が多いんですかと尋ねてみた。すると、ふだんは愛想のいい主人が急に厳しい顔になり、「いや、ダメです。文章が妙に軽くて、しかも読者を喜ばせることばかり考えていますからね。いつの時代もそうですが、いい作家というのはほんの一握りしかいませんよ」そう言って、何冊かの本を勧めてくれたが、読んでみるとたしかに売れ筋の人気作家とちがって、なるほどと思えるいい小説だった。 ある日、いつものように書棚を見てまわっていると、ベージュ色の分厚い本が二冊並んでいた。手にとってみると、アルゼンチンの出飯社から出ている『ボルへス全集』だった。ああ、やっと出たのかと思いさっそく買い込んだ。店のオヤジさんに聞くと、ボルへス全集は四巻本で、共著を集めたものが別巻になっていて、全五巻とのことだったので、残りも出版され次第取り寄せてくれるように頼んだ。ぼくが最初に手にいれたのは第一巻と第二巻だったが、家に帰るとさっそくそれを読みはじめた。 ボルへスの詩、エッセイ、短編を年代順に並べてある全集を読みながら、改めてボルへスが時間にこだわりつづけた作家だということに思い当たった。一九三六年の『永遠の歴史』から、『続・異端審問』(一九五二年)に収められている「時間に関する新たな反駁」を経て『ボルヘス、オラル』(一九七九年)の「時間」にいたるまで、時間がボルへスの主要テーマのひとつになっていることはまちがいない。それ以外の短編、エッセイ、詩も見方によれば、独自の時間認識から生まれてきた変奏曲と見なせるものもたくさんある。ボルへスがなぜあれほどまでに時間にこだわりつづけたのだろうかと考えている内に、ふと時間にこだわっていたのはなにもボルへスひとりだけではないことに思い当たった。 たとえば、アレホ・カルペンティエルは『時との戦い』、『失われた足跡』などの作品でさまざまな技巧を凝らして円環的な、あるいは逆行する時間を鮮やかに小説の中に描き出しているし、アストゥリアスはマヤ族の神話を作品にとりいれることで、歴史的な時間とは対照的な性格を備えた神話的な時間の支配する世界を蘇らせている。パスは『弓と竪琴』、『泥の子供たち』、『もうひとつの声』といった文学評論やエッセイの中で近代の進歩のみを目指す線的な時間に対して詩の円環的時間の復権をうたっているし、フエンテスは『メキシコの時間』の中で進歩を至上のものとする欧米の近代的な時間認識を痛烈に批判し、コルタサルは中篇小説「追い求める男」や小説『石蹴り遊び』の中で伸縮自在な時間について触れている。ドノソは『夜のみだらな鳥』で小説の解体を目指しているかに思われるが、その解体の基底にあるのはアイデンティティの崩壊であり、そればアイデンティティを支えている時間軸の解体から生じているし、ガルシア・マルケスは『百年の孤独』で、ある共同体、つまり世界の生一死一再生のサイクルを見事に小説化したと考えられる。 こうしてみると、現代ラテンアメリカ文学を特徴づけている重要なテーマのひとつが時間であることは疑い得ない。ぞれぞれ個別に独自の世界を構築してきた作家たちの内にこうした共通点がみられるというのは、単なる偶然の一致ではないだろう。ただ、ではなぜ彼らがあれほどまでに時間にこだわりつづけたのかというのは、簡単に答えられる問題ではない。ただ、僕の頭の中では、ラテンアメリカの現代文学と今世紀前半に起こつた、一切を白紙に還元して新たな創造を行おうとした前衛主義運動、それにアインシュタインの絶対時間を否定し、時間一空間をひとつにした相対性理論がぐるぐるまわっている。このブラック・ホールのような混沌の中から何か導き出せるかどうかはまったくわからない。五里霧中とはこのことを言うのだろうが、その中から一条の光が、アリアドネの糸が見えてくれば・・・・・・。 最近の電子雑誌事情 長畑 明利 昨年は奇妙な縁から偽の被爆者詩人アラキ・ヤスサダの騒動に首を突っ込むことになった。在外研究でスタンフォード大学へ研修に出かけた際にお世話になったマージョリー・パーロフさんが、この虚構の詩人についてのエッセイの中に小生からの電子メイルを引用し、Boston Review 誌に掲載されたそのエッセイが、めぐりめぐって『朝日新聞』の記者の目にとまったのであった。そのエッセイは、アメリカの詩人たちの間で騒ぎを巻き起こしていたアラキ・ヤスサダなる被爆者詩人が偽物であることを告発し、にもかかわらずその「フィクション」は優れたものだという趣旨であった。その後、ある日、アラキ・ヤスサダをめぐる hoax の張本人と噂されるケント・ジョンソンから電子メイルが来た。『朝日新聞』に掲載されたヤスサダに関する記事の内容を知りたい、ついては、今度出るヤスサダの詩集(Doubled Flowering)に推薦文を書いてくれないかという内容であった。かねてより、この hoax にはいくつかの問題点が見て取れたので、率直に、その旨を書いて送ったことから、ジョンソンとの間にメイルのやりとりが始まった。そしてこれがオーストラリアの電子雑誌 Jacket に掲載されることとなった。 「ヤスサダ」をめぐる議論に関しては様々な意見があろうが、それとは別に感心したのは Jacket という雑誌である。フォントの色を変え、写真を効果的に配列したそのデザインは(自分の写真が掲載されているのは意外だったが)、無味乾燥なこれまでの多くの電子雑誌とは異なり、魅力的であった。内容も(小生とジョンソンとの往復書簡は別にしても)興味深い論考や魅力的な詩作品を収録している。同じ号にはアッシュベリー特集が組まれ、また創刊号に掲載されたオーストラリアの hoax に関する論考も興味深い。シドニーで編集されている雑誌だが、インターナショナルな詩の雑誌であることをうたっており、アメリカやイギリスの詩人たちが多く寄稿している。インターネット上の多くの電子雑誌がプリント版を同時に発行し、時にはその抜粋のみを載せた宣伝用のサイトに終始しているのに対し、Jacket は電子版のみの発行である。プリント版の印刷、販売等にかかる経費が払えないためと考えて良かろうが、このことは同時に、寄稿者が無報酬、あるいはそれに近い形で、原稿を提供していることを意味しよう。 Jacket に限らず、このところ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといった国々で、電子雑誌の発行がますます盛んになってきているようである。以前、勤務先での共同研究で、英語の詩に関するインターネット上のサイトを調べ、「インターネットと現代詩:調査と予備的考察」なる報告書を書いたことがあるが、その時にくらべても、最近の電子雑誌は、内容、レイアウトともにさらに優れたものになりつつあるように思われる。 たとえば Jacket でも紹介されている del sol というサイトがある。これは Conjunctions 誌をはじめとするプリント版の雑誌の紹介と、詩・小説・エッセイの抜粋、朗読ファイルなどを集めたものである。マルチメディア的特性をうたっているためか、ホームページを開くと、サウンドファイルが自動的に起動して、最初に2分間ほどの音楽が流れる。そしてその段階で人物像をクリックすると、ムーヴィーファイルが起動して小さな白黒のオブジェが動き出し、同時に収録内容が写真と共に現れるのが楽しい。もっとも、オープニングの音楽が終わってしまうと、あとはボタンをクリックしてテクストを呼び出し、目を凝らして読む作業に戻るわけで、マルチメディアもまだまだだなと思わせる。収録されている作品はマイナーな作家のものを主とするが、シェイマス・ヒーニー、ロバート・ピンスキーといったビッグネームも顔を出し、彼らの朗読が聴ける。 インターネット上で朗読が容易に聴けるようになった要因の一つはソフトウェアの進歩である。以前はサウンドファイルをダウンロードするのに無闇やたらと時間がかかったが、リアルオーディオ社のソフトウェアのおかげで、今ではクリックするだけで音声が聞こえてくる。録音時間も、かつては短いものしか聴くことができなかったが、現在では、かなり長いラジオ番組まで聴くことができる。たとえばバッファローの EPC(Electronic Poetry Center)という実験詩のサイトが収録する LINEBreak というシリーズは、ポール・オースター、レイモンド・フェーダーマン、ロバート・クリーリー、ロン・シリマン、スーザン・ハウその他のインタヴューを収めた各30分のラジオ番組である。ネットワーク環境に問題があるのか、別売りのカセットテープと比較すると音質は劣るが、それでも、このようなインタヴューが無料で聴けるようになったのは画期的なことと言っていい。もちろん電話回線を通じてのアクセスの場合はこの限りではないが、ダウンロードも可能である。 願わくば、インタヴューや作品の朗読と一緒に、話し手の映像も観られるようになるとさらによいのだが、技術上の理由でそこまではできないらしい。かつて勤務先の同僚が仲間の詩人の朗読ヴィデオをムーヴィーファイルにしてサーバーに置いてみたが、どういうわけか映像が正しく出なかった。語学教材にはすでにサウンドファイルとムーヴィーファイルをともに用いたものもあるが、これもまだ極めて短い映像を繰り返し呼び出さなければならない。スクリーン上で映像と音声を両方楽しむことができるようになるには今少し時間が必要なようである。 その一方で、文字テクストと映像テクストの融合はそれなりに進んでいる。たとえば The Little Magazine という電子雑誌はハイパーテクスト作品を数多く収録しており、そのうちのたとえばマーク・アメリカの "Grammatron" という作品などは、アイコンをクリックすると、文字と映像を組み合わせた画面が自動的に展開していく。詩作品を読み進める際に、文字テクストに合わせて効果的に映像が現れるという趣である。音声がないのが残念だが、ヴィデオアートと詩の結合といってもよい。なかなかにエキサイティングである。 こうした例の他にも、チャールズ・バーンスティンの視覚詩作品などを収録する ebr、CDROM 制作会社の Voyager が関係するらしい Grand Street、詩に関する良質のエッセイを掲載するイギリスの Poetry Review など注目すべき電子雑誌は数多い。 インターネットが英語支配のイデオロギーを助長するものであり、またテクノロジーと資本主義に毒された〈純文学〉の敵であるという意見もあろう。だが英語圏の実験系の創作家に有意義な作品発表の場を与えていることは確かだし、また我々にとっても、外国文学・文化(及びその研究)に触れる一つの重要な媒体となりつつあることは否定できない。活字文化にも強い愛着があるが、今後は自分も文章をインターネット上に公表していきたいと考えている。(自己宣伝と雑誌のPRのようになってしまいましたが、ご容赦を。) 中国のモダンを考えること――竹内好から――
鈴木 将久 竹内好は「方法としてのアジア」で、中国現代文学の研究をはじめた契機を語っています。彼は大学在学中に北京を旅行したとき、そこに自分と同じような人間がいたことを目にして驚きました。西洋に人間がいることは習っていたけれど、中国にも人間がいることは意識したことがなかったと言います。同時に、それらの人間が何を考えているかわからないことを残念に思いました。そして彼の問題であった近代文学を考えるにあたって、隣国に自分と近い生活を送っている人がいて、しかもその心の中に入っていくことができないことが、致命的であると感じました。そこで中国の現代文学を読みはじめたと言います。私なりに敷衍させてもらうと、彼は中国旅行という体験によって、自分の隣にいるのが対話をすべき相手であることを発見し、ところが両者のあいだには隔絶があって対話ができないことを認識したということでしょう。彼の興味深いところは、その体験を、それまで日本の近代文学に向けていた関心とつなげたことにあるように思えます。竹内好は、文学を考えるために、隣国の文学と対話を試みることが必要だと考えたと言っているのです。竹内好によると、もう一つの大きな契機は敗戦にあったと言います。日本の近代が、本来あるべきでない戦争、その結果としての敗戦の苦痛を導いたことを反省し、日本の歴史がどこで間違ったかを探ろうと考えました。その時に、それまで中国文学を研究して考えていたことがはっきりしてきたと言うのです。日本の近代の誤りを考えたとき、上に述べた体験で彼が感じた隔絶感が重要になってきたようです。中国は日本とは異なるという感覚です。竹内好が出した仮説は、アジアにおける近代化の過程に二つ以上の型があるというものでした。彼にとってアジアの近代化とは、ヨーロッパ発の近代という価値を、後進国として実現することです。彼はヨーロッパの後を追って近代を実現する方法として、日本型とは異なった、中国型の近代化の道を想定したのです。 竹内好の考えた日中の近代化の違いとは、簡単に言うと、日本の近代化は外発的で、最後にはメッキがはげるように失敗したが、中国の近代化は内発的だったため、最後に成功したということです。外発的、内発的という評価が妥当であるか、また失敗、成功を一概に言えるかなど、今日から見れば彼の仮説には疑問がたくさんあります。特に中国の近代を一つの型として抽象化することによって、現実の中国の屈折を捨象してしまったことに対しては、しばしば批判があります。ただ彼の仮説の当否はさておき、さしあたって私が注目したいのは、竹内好が近代を考える際にとった基本的な態度のあり方です。 注目したいのは以下の三点です。第一に竹内好は、アジアの近代化とは、ヨーロッパ発の価値を後追いすることだとして、アジア独自の近代はあり得ないこと、近代化とは必然的にヨーロッパ発の価値への参入であることを述べながら、同時にヨーロッパ近代への参入を一元的価値への統合とは考えず、複数性を考えました。彼はヨーロッパ近代の先行性を所与の条件と認識し、同時に参入において複数性を認めようとしたと言えるでしょう。第二に彼は、複数性において、日本にとって隔絶感を感じるような、異なった型の存在を考えました。彼は中国の近代を、日本とは異なった別の型であると想定することによって、理解できない中国 を無理に理解の枠に押し込めることなく、異質性を異質性のままに承認しようとしたと思えます。そして第三に、彼は異質性との対話を目指しました。彼は異質な中国の近代との対話こそを、自らの課題としていたように思えます。ここに述べた彼の基本的態度は、竹内好にとっては、中国の現代文学全般を研究する際にとった態度であり、また彼の批評家としての基本的態度でもありますが、私の問題に引きつけて考えると、中国のモダニズム文学にアプローチするときに必要な態度のように思えてなりません。一つの例として、「中国新感覚派の聖手」と呼ばれ、一九三〇年代に一世を風靡した作家、穆時英の生涯を考えてみたいと思います。穆時英は上海の大学でフランス語を学び、ボードレールを好む同級生(後に詩人として活躍する戴望舒)の刺激を受けてヨーロッパのモダニズムに触れます。その後、台湾で生まれ日本で育った作家、劉吶鴎と出会い、彼から日本の新感覚派小説を紹介されました。人から伝え聞くという形で、モダンの価値に触れたと言えるでしょう。また彼が活動した上海という都市が、日本でイメージされる「魔都」のような悪の巣窟ではありませんが、極めてモダンな都市だったことも忘れてはなりません。上海がモダン都市であったのは、何よりも租界としてヨーロッパ文化の支配下にあったからでした。そのような環境で育った穆時英は、大学卒業後、モダンボーイとして清新な小説を書き、若くして一躍時代の寵児となったのでした。彼は一九三二年から三四年頃まで精力的に小説を執筆しました。ところが三〇年代後半になると、創作活動から離れがちになり、三九年、日中戦争中に日本が作った傀儡政権に参加、四〇年、スパイに暗殺されて短い生涯を終えました。彼の暗殺は映画もどきで、それ自体興味深いエピソードですが、私が関心を持っているのは、穆時英が傀儡政権に参加したことの意味です。詳しい経緯や彼の心理は明らかになっていなく、一説にはスパイとして傀儡政権に潜り込んだという説もありますが、事実関係は薮の中で、今となっては知るよしもありません。私にとっての問題は、モダニズム作家として一世を風靡した人物が、戦争中に敵国(と彼が意識していたかどうかは不明ですが)の傀儡政権参加という政治的行動をとったことをどのように考えるかという点にあります。 結論を申し上げますと、私自身は答えを用意していません。ただ一つ感じることは、これは政治と文学といったありふれた対立項で片づく問題ではなく、ましてや中国国内でよく言われているような、中国モダニズムの思想的脆弱さなどといった次元の問題ではないと思います。はっきりしていることは、そこにはわれわれの知らない、モダンの異質な姿があるということではないでしょうか。不分明な形で政治に参与した中国のモダニズムに対して、一方的な裁きを下すことなく、対話を試みる方法を探ることを目指して、私は現在苦闘中です。 異質性を異質性として擁護しながら、異質な近代と対話すること。竹内好の提起した課題は、未解決の問題として、私の目の前にあるのです。 スペイン映画におけるジェンダ−の表現をめぐる無駄話 坂田 幸子 昨年12月に亡くなった伊丹十三は、1960年代の初頭、ハリウッド映画『北京の五十五日』に出演するためスペインに滞在した。どうしてハリウッド映画のロケなのにスペインかというと、物価と労働力の安かった当時のスペインが大スペクタクル映画のセットを組むのに恰好の地としてよく利用されたからだ。たまたま伊丹がマドリードの映画館へ外国の映画を観にいってみると、たとえば結婚していない恋人どうしがひとつのベッドに入る場面では、ふたりの会話が「一時間前に結婚したなんて、ほんとに夢みたいだわ」とか、「お兄様と一緒に寝るの、子供の時から随分久し振りだわ」とかいう台詞に、前後の文脈を無視して吹き替えられていたという(『ヨーロッパ退屈日記』より)。フランコ将軍が独裁政治を行っていた時代、表象文化において性の話題は政治のそれとならんでタブーであり、厳しい検閲の対象だった。フランコはカトリックの教義にのっとった封建的・伝統的倫理感を国家の精神的支柱としていたから、映画のなかの男女は、男は男らしく、女は女らしく、清く正しい恋愛をしなければならなかったのだ。 やがてフランコは75年に死去。スペインは急速に民主化し、それまでの反動としてあらゆる面での解放がいっきに進む。ドラッグも解禁になり、自由で「何でもあり」的な雰囲気の中、80年代前半のマドリードでは「モビ−ダ」movidaと呼ばれるアンダーグラウンド文化が開花する。コミックを描き、パンク・ロックのバンドを率い、短編映画を自主製作するなどしてこの運動の中心で活躍したのが、アルモドバルだった。82年公開の『セクシリア』(原題は Laberinto de pasiones"情熱の迷宮")は、技術面ではまだ未熟だが、「モビ−ダ」の熱気が伝わる仕上がりだ。作品中、アルモドバル自身が女装してライブハウスで歌う場面があって、彼には失礼なのだが、これが結構、笑える。なにしろあのごつい体格をしたアルモドバルが、網タイツを履いて頬紅をべったりと塗って歌うのである。馬鹿馬鹿しくて怪しげで楽しくて、なかなかいい。さらにこの映画、今をときめくアントニオ・バンデーラスのデビュー作でもある。でも、アメリカの大衆誌で「世界一セクシーな男」に選ばれたバンデーラスのイメージを期待したら、大はずれだ。彼は主人公であるティラン皇帝の息子をベッドに誘う同性愛の青年役で登場する。主人公がバンデーラスの寝室に貼ってある女性のポートレートに目をとめ、これは誰かとたずねると、彼は頬を染めて「ぼくだよ」と答える。……当時は無名の演劇青年であったバンデーラスを発見した時、アルモドバルは「やった!」と思ったに違いない。撮影当時、彼は21歳ぐらいだったが、実際には16、17歳にしか見えないみずみずしさ、むしろ華奢な肉体、ちょっとおびえた子犬のような表情。ある種の水棲生物は成長するまでは雌雄が決定されないというが、『セクシリア』のバンデーラスは、そうした男女のどちらかに性別が分かれる以前の、不思議な両性具有的雰囲気をただよわせているのだ。彼は87年公開のアルモドバル映画『欲望の法則』でもふたたび同性愛者の役で登場し、主人公である映画監督にパラノイア的熱情でアタックし、彼の家に押しかけて新妻のようにかいがいしく世話を焼く。もしも仮に、「100%の男らしさ」と「100%の女らしさ」があったとする。アルモドバル映画ではそのふたつの極が隔てられているのではなく、両者の間が、微妙なニュアンスの階調で埋められていて、登場人物たちは、そこをある時は男性側に、ある時は女性側にと揺れているのだ。 ところで、いわゆる伝統的な意味での「スペイン的男らしさ」ということであれば、闘牛士のイメージを想像する人は多いだろう。たとえば、フランコ政権下で庶民の憧れと称賛を一身に受けた大スターであり、ヘミングウェイの『危険な夏』のモデルにもなった往年の名闘牛士ルイス・ミゲル・ドミンギン (1925-96)。しかしアルモドバルはこのような、「闘牛士=男のなかの男」という従来のイメージに異を唱える。闘牛士を主人公にした作品『マタドール』 (1985年公開) に関するインタビューで、彼は闘牛士の動作には男性的要素だけではなく、女性的要素も存在すると語る。飾りたてた窮屈な衣装のせいで踊るような恰好をして歩き、牛を誘惑するその姿は、まるでバレリーナのようではないかと、彼は言うのだ。さらにアルモドバルは、このことをみずから視覚的に表現すべく、身には闘牛士の衣装をまとい、同時に髪にはフラメンコの女性ダンサーのように、かんざしとカーネーションをさした姿でポートレートを撮ってもらうのである。『ハイ・ヒール』 (1991年公開)においても、厳格なドミンゲス判事が、女装の歌手レタルとマザコン息子のウーゴという裏の顔を持つことによって、ジェンダー間の境界は意識的に破壊される。ついでながら、この役をやっている俳優ミゲル・ボセは、前述の闘牛士ドミンギンとミス・イタリアだったルチア・ボセの間の息子である。アルモドバルの話はこれくらいにして、ここ数年のスペイン映画のうちで、本国でもっとも高く評価され、商業的にも成功した作品について触れておこう。アグスティン・ディアス・ヤネス監督による1995年の『死んでしまったら誰も私のことなんか話さない』のことだ。主人公を演じるのは、かつてアルモドバル映画のミューズでもあったビクトリア・アブリル。彼女は闘牛士だった夫が牛の角にかけられて植物人間になってしまったために、生活苦に陥る。そこで娼婦になり、さらにはマフィアの裏金に手を出そうとしたため、殺し屋に命を狙われる。しかしこのようにしてどん底でもがいているうち、彼女は、もと教師でしかも反フランコの活動家でもあった姑に支えられて立ち直り、みずからの力で人生を切り開いていく決意をするという物語だ。この映画、マフィアとの抗争で銃弾と血しぶきが派手に飛びかい、表面上はまるでB級バイオレンスの世界。しかしこの映画の中心は、主人公とその姑という女性ふたりだ (タイトルに注目。邦題『……誰も私のことなんか……』の「私」のところは、原題では nosotras で、これは「私たち」の女性形) 。いわば人生の負け犬だった主人公が、悪に身を染め、暴力の世界に身を置きながらも、辛酸を味わいつくした年配の後見役に助けられてそこから這い上がるという、従来ならば男性のストーリーであったはずのものを、この映画では女性が乗っ取っているのだ。主人公の夫である元闘牛士は、この映画では、意識もなく物も言わず、終始ベッドに横たわったままであり、いわば「強く頼れる男」の陰画になっている。フランコが死んで20年あまり。これからのスペイン映画で、ジェンダーの伝統的な表象の脱構築はもっと先鋭化するのか、それとも逆行するのか、面白いところだ。 (これは蛇足だが、ハリウッド映画に進出してからのバンデーラス。『セクシリア』では、あんなに色白で弱々しそうだったのに、近頃では肌も小麦色に焼け胸板も厚くなり、女にもてて、拳銃なんかぶっ放したりして、やたらフェロモン系のマッチョの役が多い。これって、ハリウッドはやはり、スペイン人俳優に伝統的なラテン男性のステレオ・タイプを求めているってことなのだろうか。) アナログとデジタル(研究余禄) 濱田 明
1、はじめに 私は、しかし、この問題はいずれは書かざるをえないものと考えていた。もうl0年も前から宣伝している私の未来のツァラ論「トリスタン・ツァラの夢の詩学」には書かざるを得ないだろうとは腹をきめていた。が、今回、モダニズム研究会「会報」の編集部から何でもよいから書くようにとの仰せを受け、この研究会なら内々のことでもあり、また、私にはいま何も準備ができていないので、この機会に例のダダ・シュルレアリスム比較論を書かせてもらおうと考えた次第である。 というような偉そうな御託を並べると、なにか重大な発見であるか、世界を震撼させる思想の発表てあるかのように聞こえるが、じつは大したことはなにもない。ただ、ブルトンの思考方法がアナログであり、ツァラのそれがデジタルである、というに過ぎない。以下に、その概要だけを最近流行のコンピユータ概念と精神分析的概念とを措りながら略述してみたい。
2、概要 (1)シュルレアリスムもダダもその基盤とするところは現実社会構造である。それらは、いずれも現実社会構造の中にあって、いずれも言語表現を手段としながら、詩的創造活動を行なおうとしたのである。詩の環境をこの際ハ一ドウェアと呼ぶことができれぱ、シュルレアリスムもポエテイック[ここではツァラの詩法を、ブルトンのシュルレアリスムに対して、ポエティックと呼ぶことにする]もハードウェアは現実社会構造であるといえる。が、それぞれの実践方式は微妙に異なっているのである。 (2)先ず、その目的ないしプログラムについていえば、シュ一ルにおいては現実社会の改革てあり、ダダにおいては新しい社会の創造である。一方は修正的,継続的であるに対して、他方は根本的・断絶的である。したがって、両者の世界像(幻想世界)は一方は現実空間のうえに立てられ、他方はユ一トピア的トポスのうえに立てられる。シュールレール(超現実)はレール(現実)を基盤とするが、ダダの詩学[=ポエティック]はイマジネールを基盤とするのである。 (3)次に、そのいずれにおいても、詩学の発現体は「夢」であり、詩的内客を夢または意繊・無意識からその養分をとっているが、シュールでは「夢」は「夜の夢または睡眠時の夢」が多く、ダダのほうは夜や睡眠時の夢だけてなく「意識,無意識、前意識、等々」の総体である。そして一方が現実社会枠を継続しているのに対して、他方は現実的素材だけに依拠せず、独自の内部から創進の発現体をみいだしている。その場含、あらゆる宇宙的・神話的要素をもとりいれ、必要とあれぱ原始・古代から再出発することもある。 (4)また、両者において、精神分析の概念が理論の支柱になっているが、シュールはフロイト的てあり、ツァラ(=ダダ)はユング的てある。たとえぱリビドーの概念は前者ではエロス中心的であるが、後者では心的エネルギー全般を含んでいる。また、Desir(欲望)のペクトルをみても、前者は性的欲望が中心であるのに対して、後者は精神的《願望》全般を表している。また、ユングの概念に「根本態度」というのがある。これは人間を動かす根本的な精神エネルギーの根源とでも言うぺきものであるが、ブルトン[=シュール]の場合は改良的・修正的であるのに対し、ツァラ(=ダダ)の場合は変革的・革命的であった、といえる。これは重大な問題でありながら表面化しがたいことであるが、シュールは近代プルジョワ社会に深く根ざしたものであり、ブルジョワ文化から離れず、それを修正しようとしたものであった。が、ツァラの場合、多くの他のダダイストとは違って[もちろんシュルレアリストとも違って]、文化的根源を東欧開放ユダヤ知識人階級にもっていたからである。 (5)また、言語表現におけるテクスト構成法は、−方はオートマティックであり、他方はポエティックである。そして多くの場合、テクストの内容は一方はレシ(夢の語り)であり、他方はポエジーである。また、シュルレアリスムの詩法が言語の連結において結合的であり、連続的であるのにたいして、ダダのそれは「帽子のなかの言葉」で象微されるように破壊的てあり解体的である。一度バラパラにした単語を再結合させるのである。 (6)文学史的にいうなら、シュルレアリスムにおける創造の核ともいうぺき「夢」の概念は19世紀のロマンティスム後期のシュルナチュラリスムあるいはシュペルナチュラリスム[Cf. Henri Lemaitre: Du romantisme au symbolisme, A. Breton: les Pas perdu, etc. ]から引き継いでいる。またシュルレアリスム運動そのものは《 surrealisme》という用語は別としても、アポリネールのいわゆる「エスプリ・ヌーヴォ」の運動を受けたものである。またシュルレアリスムの文学・芸術の実熊が19世紀末のそれから引き継がれているということはPascaline Mourier-Casileの研究[De la chimere a la merveille]でも、具体的図像等の分析によって指摘されているところである。それに対して、ツァラのダダは、その先例となるものは文学史的観点からすれぱ見当らない。文学の領域やそれ以外の領域を拡大して仔細に求めてみれぱ、ダダと類似の精神、類似の活動があることは想像に難くないであろうが、文学・芸術運動として直接にダダと繋がるものはいまのところ私には見当らないのである。以上、じゅうぶん説明し尽くせないが、大筋としては私の意図したことは推測されうるものと思う。また私のこのような見方について諸賢がそれぞれの研究によって新しい発見をし、それを捕ってくださるのを待っている。もちろん私の見方に対する反証も大歓迎である。それは別にして、以上のことがらを表に纏めてみようと思う。実をいうとこの表が私の書きたかった結論のごときものなのである。これは10年前に作成したもので、その後あまり手を加えてもいず、また内容的にもあまり発展していないものであるが、この機会に公表するものてある。 3.図式、ダダとシュルレアリスムとの概念差
近況報告 西 成彦 柄にもなく『嵐ケ丘』に凝っています。小学生時代にどういうわけか手にして、予想外の興奮を覚えた記憶が甦って、この小説の「クレオール性」について考えてみようと思い立ったのが、二年前。ちょうど『嵐ケ丘』と対をなす『ジェイン・エア』の傍役としてジャマイカ生まれの「クレオール女性」が登場することをプレテクストに、語りとエクリチュールの配分について考えているところです。 小説は、ナラティヴ芸術と、書簡に見られる私的な文字使用のあいだの混血から生まれたジャンルです。 ひとりごとと落書き。 『嵐ケ丘』は、キャサリンという名のいまは亡き女性の古い落書きを盗み読んだロックウッドという独身男性が、熱にうなされながら、ネリーという女性の昔語りに耳を傾ける形式で書かれています。 「クレオール小説」を定義するのに、クレオール言語で書かれた小説だとか、クレオール言語の成立を余儀なくされたような旧植民地から生まれた小説だとか、この種の定義は、ほとんど有効性がないと、私は思っています。 それではどうそれを定義すればよいのか? 私はそれは、たとえば、こう定義したいという誘惑にいま駆られています――膨大なオーラル文化の系譜と、同じく膨大な落書き文化(公文書から祈祷書への書き込みまで)の系譜のあいだに成立した文字芸術がそれだ、と。 フランス語圏アンチル諸島の作家たちが提唱した「アンチル性」「クレオール性」をめぐる思考への呼びかけは、私たちをひとりひとりの自己発見へといざなう誘惑に満ちていますが、私はシャモワゾーとコンフィアンが『クレオール文芸』(邦題『クレオールとは何か』)の中でたどってみせた「クレオールな体験」「クレオールな言語表現」「クレオールな文芸」が縺れあい、絡まりあい、結びあってきた軌跡の探究の方に関心があります。この三つの水準は、いずれも奴隷制や近代化や植民地主義(及び脱植民地化)の歴史と深く結びつき、歴史的経験の中の言語表現、さらには文字を用いたその再編という、私たちが文学一般を問い直すときの新しい問題意識を掻き立ててやみません。「クレオールな体験」「クレオールな言語表現」「クレオールな文学」は、アンチル諸島をはじめとする旧植民地地域、旧奴隷制支配地域に限らず、地球上に遍在(「偏在」ではない)するはずです。もちろん同時多発的な遍在もあれば、伝播と受容を経た流布もあります。これはモダニズムの遍在性を考えるときも同じことが言えるでしょう。ただ、モダニズムを考えるときにも文字所有者の特権性・突出性を度外視してはならないと考えるのです。特に、「ショアー」(「ホロコースト」とは呼ばないようにしましょう)と文学のことを考えるときに、「体験」と「言語表現」と「文学」の位相のズレとそのズレを越えた接合を考えないわけにはいかないと考えたからです。 というわけで、奴隷制や「ショアー」や一般的なモダニティーの問題を考えるときのグロバールな視点をつかむために、たとえば『嵐ヶ丘』の中に「クレオールな文芸」を見出せないかというのが現在の関心事です。 『嵐ヶ丘』から『アリス・B・トクラスの伝記』を経て、トニ・モリスンの『ジャズ』や石牟礼道子の『苦海浄土』やシャモワゾーの『テキサコ』まで。押し黙った文字の連なりの背後に、自由な証言に身を委ねる肉声の持ち主たちの姿をもう一度呼び覚ましてみたい。 言語は、文字であれ、声であれ、歴史的証言を伝承するためにこそ存在するのであり(ダダやシュルレアリズムさえがそうだと思います)、証言可能な現実をどこまで人に証言させ、それを正しく記録するかに文学の未来はかかっている。 これまでの歴史記憶を矯正するのが、証言です。ホロコーストと植民地解体とフェミニズムの台頭が可能にした二十世紀後半の新状況の中で、文学は案外素朴な問題を前にして、相変わらず歴史と言語のはざまで格闘している。 モダン/ホストモダンの論議と、いま私が考えている声と文字の問題は無縁ではないと信じつつ、近況報告としたいと思います。 以上 モダニズム研究会の名称について ──ご連絡とお詫び── 代表 大平 具彦 各位 寒い日が続いております。 さて、しばらく前に、われわれの研究会の名称をモダニズム研究会から、新しい科研費研究のテーマにあわせ、アヴァンギャルド研究会へと替えるかどうかについて、三宅さんより問い合わせが皆さんのところに行っていたことと思います。寄せられた回答はアヴァンギャルド研究会を支持するものが多かったのですが、考えてみますと、今回の科研費申請は前回の延長、発展上にあるものであり、三宅さん、和田さんと相談した結果、われわれの研究会の名称は従来通り、モダニズム研究会とすることにいたしました。今回、科研費申請が通って、前に出た『モダニズム研究』の続編が新しく刊行される場合、それがアヴァンギャルド研究会編では、モダニズム研究会とは全く別個の研究会の仕事であるようになってしまい、われわれの仕事の継続性が生かされない、というのがその理由です。本来であれば、アヴァンギャルド研究会という名称を私が考えたときに、私が当然にそのことに思い至らねばならないことでありました。私の軽い気持ちから、アンケートなどで三宅さんに余計な負担をかけてしまったこと、また皆さんにもご面倒、ご迷惑をおかけしたことをお詫びするとともに(特に、アヴァンギャルド研究会の名称にご賛成下さった方、申し訳ありませんでした)、以上の結論に至ったことにご了解をいただけますようお願い申しあげる次第です。 |