個の存在を最後に祝福する「術」〜老いの視点から見た真の対話
近ごろ、「老い」のことがやたらと気にかかる。「老い」といっても、自分の身体のことではない。生物・無生物を間わず、存在一般の老い、人間や建物の老い物や風景の老い、文明や芸術の老いのことだ。
時間についての長々とした抽象的・哲学的議論は疲れるが、老いた人聞や動物、廃れた道具や家屋、都市のありさまは、いつまで見ていても飽きない。それらの静けさの向こうに、役目を終えたもののみが持つ不思議な自由さが、万物を消滅に向かって運ぶ時間のやむことのないリズムと官能が、感じとれたりもする。
老紳士のN氏と出会ったのは、昨年暮れ、友人のささやかなアトリエ開きの折りだった。三度の出征から生還し、戦後、卓越した手腕で事業経営を乗り切ってきたN氏は、書画・民芸の慧眼(けいがん)の蒐集家でもあり、七十八歳になる今は、瀬戸内の小さな町で、孫たちに閉まれて静かな隠居暮らしを営んでいる。
強者の論理の脱構築
三年前に妻に先立たれたN氏は、まもなくして水泳を始めた。古式泳法ではなく、クロールやバタフライなどの近代泳法である。近代泳法は力とスピードを旨とするが、N氏はそんなことにかまわず、ただ淡々と、変わらぬペースで、しかも際限なく泳ぐ。驚くべきことに、彼はいくら泳いでも疲れない。体力があるからではなく、むだな力をほとんど使わないからだ。
「指先から足の先まで、全身で水をいとおしむように泳ぐ」と彼は言う。衰えた筋力や心肺機能に合わせて、水に逆らわずに身をまかせ、水と溶け合うように泳ぎを楽しむ。水という外界との対話が、そのまま身体との内なる対話となって、生き残っているという基本的事実との楽しいめぐりあいが実現されている。
強靭な肉体が水の抵抗を克服する近代の強者の論理が脱構築され、水と弱い身体のゆるやかな適応の術が探られているのだ。N氏は、水に浮かんで死にたいとも言う。
老いは、実在の有限性と消滅の肯定を促す。消耗から死へと向かう過程で、意識は弱い身体の克服をあきらめざるをえず、くずれていく形態は意味と機能のコードから逸脱せざるをえない。そのとき、つかのまながらシステムの箍(たが)はゆるみ、人―物―世界の、部分と部分の、自由な共生が生じる。生を拘束している諸々の価値が相対化され、かけがえのない存在の地盤が露呈される。
死が隔離された時代
老いは、近代のあくなき生産と消費のシステムからの退出でもある。その弱さと個別的分解の論理は、近代の強さと普遍的統合の論理から排除され、それがもたらす消耗は、効率優先のテクノロジーにとって禁忌であった。近代とは、ゆっくりと消耗し、消滅していく権利を物から奪い、生から死を隔離した時代である。時間に戦いを挑むこの文明は、文化財と産業廃棄物、一方は展示され、一方は隠蔽されるが、いずれも消滅する可能性を奪われたイデオロギー的・技術的産物物を両極に持っている。この両極は、老いと消滅を排除して、これからもますます増大するだろう。
産業革命と前後して近代的な規定を受け取ったいわゆる「美術」が、同じく前進する強い普遍主義と結びついていたことは言うまでもない。美術館や展覧会などの制度と、それが暗黙に強制する展示効果の強さがその証拠だ。美術家よ、あなたは作品に「強さ」を求めなかったか。「弱いね」と批判されなかったか。最後には、美術館に入って自己を永遠化したいと望んでいないか。
問い直される美術
だが一方で、モダニズムを主導したそうした価値体系も、民族問題や環境問題に見られるような近代文明の深い動揺と共に崩れつつある。アジアの美術家たちは、西洋化=近代化によって破壊された文化的アイデンティティーの問題をさまざまに問い直し、アメリカでは、マイノリティや女性の美術家たちがモダニズムを牛耳る白人男性の価値観を攻撃する。ドイツでは、ばかでかい大作は「アメリカ風」と揶揄(やゆ)され、作品を、社会から自律した美的な「実体」ではなく、社会的なコミュニケーションを活性化する「プロセス」たらしめようと提唱される。今や「美術」は、人類学的なパースペクティヴの中で、その意味と機能を聞い直されているのだ。。
だがこの国では、「美術」は今も十九世紀の西洋的規定の下にある。あらゆるものが消費文化に吸収される社会の中で、視覚芸術の役割と可能性を再考することもなく、技術伝授に終始する美術教育、展覧会の経歴作りにいそしむ美術家、役所と美術市場にふりまわされる美術館行政、強くて新奇なものに群がるジャーナリズム。
いや、老いという視点に立てば、そんなことはどうでもいいことかもしれない。泳ぎながら生きていることを確かめているN氏は、タイムを気にしない。ぼくにとっての問題は、強い「美術」などではなく、滅びていく個々の存在を最後に祝福する弱い「術」なのだ。前者は不特定多数の「観客」を相手にするが、後者は真に対話すべき相手に捧げられる。その相手は、人間であったりなかったりする。
井上明彦
*『京都新聞』1993(平成5)年8月28日(土)