三宅 昭良



◆◆◆自己紹介◆◆◆


生年 月日:1958年1月24日
出   身:香川県
学   歴:東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退
所   属:東京都立大学人文学部英文専攻 助教授
専門 領域:モダニズム/ファシズム論
主要著訳書・論文など
〇『アメリカン・ファシズム--ロングとローズヴェルト』(Oct. 1997 講談社選書メチエ:講談社)
〇「光と人種の救済論--エズラ・パウンドとユダヤ人絶滅の思想」、『現代思想』1998年8月号 (青土社) 32-63
〇「意志の闘技場--エズラ・パウンドとイタリア・ファシズム」、『現代思想』1995年6月号、 (青土社) 120-145
今回の執筆テーマ
☆地中海からカリブ海へ──デッレク・ウォルコットの『オメロス』について
    
    
最近の仕事
〇「エズラ・パウンドのアメリカン・マインド=セット--彼はアメリカン・エレミアか」Ezra Pound Review 第2号 (Oct. 1999 日本エズラ・パウンド協会)、1-16
〇「花びらの張りついた、濡れた黒い大枝--エズラ・パウンドのファシズム的契機」、『現代詩手帖』、 1998年9月号 (思潮社) 50-56
     
     
近況
この研究会の事務局をやるかたわら、詩人エズラ・パウンドの本を書いているのですが、日々の雑事があまりに多く、なかなかはかどりません。じっくり書く時間がほしい。
 三宅 昭良
  1999年の年賀状に使った自画像
会報『21世紀』
〇モダニスム/ファシズム/オカルティズム──三題噺のおはなし──
〇不眠症芸術のための覚え(忘れ?)書き
〇第2章 越境と文化アイデンティティー:あるいは〈越境〉とは何か――幹事のひとりとしての問いかけ

●みなさんへのメッセージ●


人文学のすすめ--あるいはモラルとしての越境--

石原東京都知事が「四大学を束ねる」などと言いだしたために、私の勤める東京都立大学では、学内改革論議が沸騰しております。
知事サイドは「効率と監査」を明言し、大学に産業主義の論理を持ち込んで財政再建の一助にしようと考えているようです。大学に対して設置者としての明確な方針を説明せず、そのいっぽうでマスコミを通じて「大学教員は必要数の三倍もいる」などと放言しております。学内もまた情けない状況で、法学部や経済学部はロー・スクールやビジネス・スクールの設立を画策し、理系の学部もそれぞれに最先端科学部などの遠大な夢を思い描くなど、知事のお眼鏡にかなおうと踊っております。
しかし、ちょっと待ってほしいものです。二〇〇〇年の春現在、世の中はどうなっているでしょうか。京都では「てるくはのる」と名乗った青年が小学生を惨殺し、これを大阪の男が模倣して中年男性を殺してしまう。神奈川県警にはじまった警察不祥事は、新潟、埼玉、福岡、佐賀県警などでも発覚し、いつ終わるとも知れずいまも続いております。どういうつもりか知りませんが、金融監督庁の大臣は信金への手心検査を確約したせいで辞任に追い込まれました。ミイラをこしらえておきながら、「定説」の二文字をふりまわしてカラ威張りに明け暮れた髭の老人。足の裏で万病の治療ができるとうそぶき、「最高ですか!」とさけんで自分の愚劣さを再考しようとしない鉄面皮のおじさん。こういった連中にいいようにされて陶酔している大勢の人たち。何兆円という税金を注入されて、それでもってかろうじて生きているはずなのに、銀行は預金利率をゼロにしたまま社員の給与を着実にアップしてきました。彼らが巨額の税金で救われたのは、中小企業への貸し渋りを解消するためでありました。ところが現実には、ゼネコン企業やセゾングループなどの借金は棒引きにして差し上げるというのに、弱小企業には貸し渋りをいっそう強化しています。そしてそのいっぽうで、日榮などの悪徳金貸し業者にたっぷりと融資し、たんまりと利子を受け取っている始末です。ヤフー・ジャパンの株価が一億円を突破したと報じられれば、実体の怪しいネット株に群がって一儲けしようと意気込むにわかトウシカたちがわいています。出版業界はこうした欲望の発芽にさっそく目をつけ、株指南の雑誌がいくつも本屋の棚に立ち並ぶといった塩梅ではありませんか。
法律家が法を破り、経済人が金を盗み、警察が犯罪を犯す。教師がそっせんして生徒をいじめ、学校と教育委員会がこれを隠し、かばう。子供が親をなぐり、親が子を殺す。何故こんなことになったのでしょうか。当然のこと、事件のひとつひとつにそれぞれ複雑に絡まりあった特有の原因の束があるでしょう。しかしそうしたトリッガーとしての原因とは別の相に、われわれの社会をかくも歪めてしまった遠因が横たわっているように思います。それを一言で名指すことは容易でありませんが、《物質的繁栄を追求する欲望の繁茂》とここで呼んでおきましょう。この《欲望》というやつは、簡単なことでは充足されず、ムダやムラがあったのでは、到底満たされません。ここに創意と工夫がうまれ、いわゆる「文明の進歩」が積み上げられてきたわけですが、それはいっそうの効率化を要求し、効率は数値化、画一化、均一化、均質化を要求します。こうして「数値化、画一化、均一化、均質化」しやすいものだけが尊ばれ、この要請にこたえないものは排除されるようになります。なぜなら「効率」という観点からみれば、それらは「数値化、画一化、均一化、均質化」をさまげるムダとムラにほかならないからです。
効率とムダ。この発想がどれほどわれわれの生活のすみずみまで浸透していることでしょう。それはこの社会が産業主義と官僚制に貫かれていることと密接に関係しているでしょう。そしてわれわれの教育もまた、産業主義と官僚制を支えるために、効率を追求しムダを排除するよう組織されています。学校生活はじつに入念に工場労働的タイム・テーブルで管理され、生徒の理解度は「試験」という数値化された物差しで計測され、「成績」という均質空間に配属されます。ここから逆に、数値化しえるものだけが教えられ、成績化しにくいものは軽視される傾向が生まれます。そしてこの軽視されるものは、効率よく成績を上げるには邪魔なものとして排除さえされてしまいます。「モラル」とは、そうして軽視されるもののひとつです。
大学に話をもどして一例をあげましょう。現在、都立大学では「先端科学研究部」なる新組織を立ち上げようという動きがあります。これは生命科学、情報科学、環境科学の三分野からを含む、「理・工融合の新研究科であり、産業活性化に貢献する自然科学系組織として構想されている」ということです。ここでどれほどの最「先端科学」が研究されるのか知りませんが、その研究が最「先端」であればあるほど、倫理的判断と方向づけが重要になるはずです。知識と技術はそれがどんなに先端的であろうとも、単なる道具の断片にすぎず、それらをどう組み合わせて何のために使うのか、使うべきなのか、そして使うべきでないのか、こういった判断と抑制を高度の効率化から生みだされる「先端」技術と知識はそれ自身の内部に含み持ってはいないからです。そしてここにこそ、人文学の領域がひろがっていると、私は考えます。
さきほど、効率とムダという発想との関係で、産業主義と官僚制について語りました。両者は効率を追求し、ムダを排するシステムとして自らに磨きをかけてきたのでした。ところが皮肉なことに、今日の産業主義はその追求の結果、産業廃棄物という名の途方もないムダを排出しております。官僚制も同じです。警察官僚の相次ぐ不祥事は効率の追求が生みだした壮大なムダのささやかな一例にすぎません。こうしてムダを排除する発想からは、新たなムダが出来するのです。
われわれは発想の逆転を求められております。いま社会が求めているのは「ムダを組み込んだシステム」です。「モラル」というムダは利潤追求の妨げになるでしょう。しかしこのムダを組み込むことなしに、「新たなムダの解消」は到底おぼつきません。
この社会には、もうひとつ気になる「ムダの排除」があります。ショ−ヴィニスティックなナショナリズムの抬頭がそれです。たしかに北朝鮮のテポドンは脅威ですが、それを理由に在日朝鮮人への暴力が許されるはずはありません。また教育の現場では、日の丸と君が代が強制され、人々の心の自由を侵害し、これに従わないものに制裁が加えられております。
われわれモダニズム研究会が今回取り組んでいるテーマ「越境」は、そのようなナショナリズムの「数値化、画一化、均一化、均質化」を妨げる「モラル」にほかなりません。われわれモダニズム研究会は、このような気構えにもとづいて人文学の研究に努め、越境について語るつもりでおります。この駄文に興味をもたれた方は、今年の7月29日に早稲田大学で行ないます当会の公開シンポジウムにいらして下されば、幸いです。

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