■シンポジウム概要
■井上明彦のレジュメ
■アンケート依頼文
■アンケートへの回答 (50音順、敬称略)
・石原友明
・今村 源
・扇 千花
・大山幸子
・児玉靖枝
・椎原 保
・夏池 篤
・ひろいのぶこ
・藤 浩志
・三嶽伊紗
・森下明彦
・山部泰司
・渡辺信明
■法的問題について (藤浩志氏から)
■補遺二点
■芦屋市立美術博物館を考えるワーキンググループ
■井上への問い合わせ
多忙にもかかわらず、多大な時間を費やしてむずかしい質問に答えていただいたみなさまに、 改めてお礼申し上げます。 またここに掲載できなかった方々も、真摯に考えていただき、心から感謝いたします。(井上明彦)
[1]美術館には専門の学芸員が必要だと思われますか? 必要ならそれはなぜですか? [2]日本の社会に美術館は必要ですか? 必要だとすればそれはなぜですか? [3]この国の美術にとって望ましいと考える美術館ないし文化施設とはどのようなものですか?
三嶽伊紗
必要ではない美術、それが、経済、社会の中で「ウゴク」折、 誤解を承知で申しあげるなら 必要でないものだからこそ生まれる、ある種の「必要悪」。 そこから、逃れる一つの方法が、 もしかしたら、今の「美術館」かもしれないなどと考えております。 上手く言えません。 必要でないモノを、必要でない場所で、みせることが大切かもしれないなどと・・・ 私は考えているのでしょうか・・・・・。
森下明彦
[1][2] 私たち美術関係者にとっては、おそらくどちらの問いへも、答えは「必要である」となり、理由は、「そうでないと定義上美術館と呼べない」、「そうでないと、社会的に不備である」、「そもそも歴史的にそうであったから」などのようなものに、結局の所帰着するわけです。それらは反論の余地もないほど、当たり前のように思われます。 しかし、市民の一人ひとりや、行政の関係者(首長を含む)、議員にとってはこのような自明さも、ほとんど意味をなさないのではないでしょうか? 誰にとって必要か−−ということを考慮しないでは、2つの「必要であるか?」の問に答えられないのではないでしょうか? つまり、美術の思考を一度カッコに入れて、市民の視点から、美術館を捉え直すことが、まず重要ではないでしょうか? たとえば、なぜ消費税を払わなくてはいけないかを新聞紙上で知らせる政府広報と同じ位置に立つべきと思うのです。法律で決まったから払えでは、皆怒ってしまいますから。 ただし、上の意味は、多くの市民が不要と考えるなら美術館はいらないと結論する、ということではありません。必要を感じない方々に時間をかけて、熱意を持って話し掛け、最終的に理解していただくという行動を避けてはいけないということです。 私の見るところ多くの日本の美術館や、あるいは美術を展覧することになる多数の活動も、美術を見せつつ、同時に美術と美術館の存在意義を多くの市民に訴えるという、二つを並行させてきました。二つが共に大事だという認識があったわけです。しかし、これまでのところ、両方とも成功していなかった。 今回の芦屋市立美術博物館の問題が生じること自体、不成功の証拠です。ということは、それら二つとは別の行動が要請されている/いた、のだと考えざるを得ません。この第三の行動が果たしてどのようなものなのか、残念ながら今の私には適切に語ることができません。先述のように、視点や足場を変えることは肝要です。では、具体的に何を? おそらく、八方塞がりの中で、それでも少しは期待出来るのが、アーティストの活動ではないでしょうか? 地域に足を下ろし、作品とともに、あえてさらすことはないにしても、彼/彼女の生きざまが自ずと知られてくる中から、美術や美術館、そして、美術館に必要な学芸員の存在の意義が、徐々に理解されてくるのではないかと思います。注意したいのは、そうしたアーティストを美術館が展示し、紹介するから理解が深まるのではなく、最初にあるのは、アーティストの活動そのものなのです。 ただし、アーティストの仕事が、美術館という権威の場に作品収蔵という形で反映されるかは、別の問題です。それこそ、美術関係者の専門性が決める問題です。 先に美術館ありきではなく、アーティストありきと考えます。 こう考えるのは、私が関わる映像やメディアアートの分野での経験からです。ある美術館の関連催しの企画を依頼されたことがあるなど、それなりの関係はありました。しかし、基本的には専門家のほとんどいない美術館には期待せず、自分たちで上映会を持ち、研究活動を行い、作品や情報を保存し、海外との交流を果たしてきました。ようやく最近になって、多くの美術館が手掛けるようになってきましたが、それも、海外などでビデオを利用した美術家の仕事が増加したからという現象を受けてのことでした。 [3] 美術館は美術館でその機能と専門を生かした仕事をし、同時に他の、アートNPOや商業画廊、文化センター、美術系大学、個人が生き生きと自らの活動を行い、相互の交流が活発であるような状況が大事であると考えます。 一つひとつの組織/個人もこうした磁場の中で自ずと望ましい姿になっていくべきです。望ましい美術館とは、前提として掲げる理念ではなく、互いとの切磋琢磨の過程で段々と浮きぼりになるようなものだと理解しています。 最後にどうしても書いておきたいことがあります。それは、この日本の国の芸術全般(作家や関係者、美術作品、美術館、美術政策、その他)の根本的な「貧しさ」です。作品の質と数、作家の層の薄さや仕事のつまらなさ、美術に使われる予算の少なさ、一般市民の意識の低さ、歴史的蓄積の乏しさ−−などなどです。 しかも、この貧しさを産み出しているのが、実はそれなりの小金や資金、趣味性であるという逆説もあります。作家は制作に没頭すべきところを、個展の打ち上げの飲み代に使ってしまう、あるいは、とにかく我が市にも美術館を建てたい、あるいは、収蔵作品がなくても建物は立派でであれば良い、・・・など。本当に貧しければ、出来ないはずなのが、全国至る所に中途半端な美術館もどきが濫立してしまったのでした。挙げ句は、入場者が少ない、運営予算がない、と今回の事態に行き着いたわけです。貧しいものを見ても、心は豊かになれないのですから。 現在日本中がリストラという言葉に翻弄されていますが、これを逆手に取って、貧しき日本の芸術をリストラしてはどうでしょうか? 会社や大学の再編成や市町村合併とは異なりますが、同じようなことを考えられるのではないでしょうか? 美術館はつぶしてはいけないという、教条的な、美術を基盤とする議論ではなく、何よりもあの貧しさを打破する方法としてです。 しかし、芦屋の市民の皆さんが、自分たちの美術館が必要で、残したい、さらに、残すにあたりしかじかの行動をいといませんとおっしゃられるなら、私はその覚悟を尊重いたします。要は関係する全ての方々の了解が重要と思うからです。 そのことで、もしかすると貧しさが解消出来るかもしれません。多くのつながりで地域に結びついていることは、貧しさの反対である「豊かさ」に到る必要条件と考えられるからです。 芦屋市立美術博物館でいえば、館の所蔵する、「具体」関連の所蔵品や郷土資料は、現状ではまだ貧しきものだとしかいえませんが、それらが地域とより広範で深い回路を形成する時、豊かになりうるということです。 以上は私、森下がメディアアーティスト/展覧会企画者/大学教員としての立場で記述しました。公表(口頭/文章/氏名/肩書き)構いません。(2004/5/5) ▲top
[1][2] 私たち美術関係者にとっては、おそらくどちらの問いへも、答えは「必要である」となり、理由は、「そうでないと定義上美術館と呼べない」、「そうでないと、社会的に不備である」、「そもそも歴史的にそうであったから」などのようなものに、結局の所帰着するわけです。それらは反論の余地もないほど、当たり前のように思われます。 しかし、市民の一人ひとりや、行政の関係者(首長を含む)、議員にとってはこのような自明さも、ほとんど意味をなさないのではないでしょうか? 誰にとって必要か−−ということを考慮しないでは、2つの「必要であるか?」の問に答えられないのではないでしょうか? つまり、美術の思考を一度カッコに入れて、市民の視点から、美術館を捉え直すことが、まず重要ではないでしょうか? たとえば、なぜ消費税を払わなくてはいけないかを新聞紙上で知らせる政府広報と同じ位置に立つべきと思うのです。法律で決まったから払えでは、皆怒ってしまいますから。 ただし、上の意味は、多くの市民が不要と考えるなら美術館はいらないと結論する、ということではありません。必要を感じない方々に時間をかけて、熱意を持って話し掛け、最終的に理解していただくという行動を避けてはいけないということです。 私の見るところ多くの日本の美術館や、あるいは美術を展覧することになる多数の活動も、美術を見せつつ、同時に美術と美術館の存在意義を多くの市民に訴えるという、二つを並行させてきました。二つが共に大事だという認識があったわけです。しかし、これまでのところ、両方とも成功していなかった。 今回の芦屋市立美術博物館の問題が生じること自体、不成功の証拠です。ということは、それら二つとは別の行動が要請されている/いた、のだと考えざるを得ません。この第三の行動が果たしてどのようなものなのか、残念ながら今の私には適切に語ることができません。先述のように、視点や足場を変えることは肝要です。では、具体的に何を? おそらく、八方塞がりの中で、それでも少しは期待出来るのが、アーティストの活動ではないでしょうか? 地域に足を下ろし、作品とともに、あえてさらすことはないにしても、彼/彼女の生きざまが自ずと知られてくる中から、美術や美術館、そして、美術館に必要な学芸員の存在の意義が、徐々に理解されてくるのではないかと思います。注意したいのは、そうしたアーティストを美術館が展示し、紹介するから理解が深まるのではなく、最初にあるのは、アーティストの活動そのものなのです。 ただし、アーティストの仕事が、美術館という権威の場に作品収蔵という形で反映されるかは、別の問題です。それこそ、美術関係者の専門性が決める問題です。 先に美術館ありきではなく、アーティストありきと考えます。
こう考えるのは、私が関わる映像やメディアアートの分野での経験からです。ある美術館の関連催しの企画を依頼されたことがあるなど、それなりの関係はありました。しかし、基本的には専門家のほとんどいない美術館には期待せず、自分たちで上映会を持ち、研究活動を行い、作品や情報を保存し、海外との交流を果たしてきました。ようやく最近になって、多くの美術館が手掛けるようになってきましたが、それも、海外などでビデオを利用した美術家の仕事が増加したからという現象を受けてのことでした。
[3] 美術館は美術館でその機能と専門を生かした仕事をし、同時に他の、アートNPOや商業画廊、文化センター、美術系大学、個人が生き生きと自らの活動を行い、相互の交流が活発であるような状況が大事であると考えます。 一つひとつの組織/個人もこうした磁場の中で自ずと望ましい姿になっていくべきです。望ましい美術館とは、前提として掲げる理念ではなく、互いとの切磋琢磨の過程で段々と浮きぼりになるようなものだと理解しています。
最後にどうしても書いておきたいことがあります。それは、この日本の国の芸術全般(作家や関係者、美術作品、美術館、美術政策、その他)の根本的な「貧しさ」です。作品の質と数、作家の層の薄さや仕事のつまらなさ、美術に使われる予算の少なさ、一般市民の意識の低さ、歴史的蓄積の乏しさ−−などなどです。 しかも、この貧しさを産み出しているのが、実はそれなりの小金や資金、趣味性であるという逆説もあります。作家は制作に没頭すべきところを、個展の打ち上げの飲み代に使ってしまう、あるいは、とにかく我が市にも美術館を建てたい、あるいは、収蔵作品がなくても建物は立派でであれば良い、・・・など。本当に貧しければ、出来ないはずなのが、全国至る所に中途半端な美術館もどきが濫立してしまったのでした。挙げ句は、入場者が少ない、運営予算がない、と今回の事態に行き着いたわけです。貧しいものを見ても、心は豊かになれないのですから。 現在日本中がリストラという言葉に翻弄されていますが、これを逆手に取って、貧しき日本の芸術をリストラしてはどうでしょうか? 会社や大学の再編成や市町村合併とは異なりますが、同じようなことを考えられるのではないでしょうか? 美術館はつぶしてはいけないという、教条的な、美術を基盤とする議論ではなく、何よりもあの貧しさを打破する方法としてです。 しかし、芦屋の市民の皆さんが、自分たちの美術館が必要で、残したい、さらに、残すにあたりしかじかの行動をいといませんとおっしゃられるなら、私はその覚悟を尊重いたします。要は関係する全ての方々の了解が重要と思うからです。 そのことで、もしかすると貧しさが解消出来るかもしれません。多くのつながりで地域に結びついていることは、貧しさの反対である「豊かさ」に到る必要条件と考えられるからです。 芦屋市立美術博物館でいえば、館の所蔵する、「具体」関連の所蔵品や郷土資料は、現状ではまだ貧しきものだとしかいえませんが、それらが地域とより広範で深い回路を形成する時、豊かになりうるということです。
以上は私、森下がメディアアーティスト/展覧会企画者/大学教員としての立場で記述しました。公表(口頭/文章/氏名/肩書き)構いません。(2004/5/5)
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山部泰司
[1] 美術館に関わる専門職として、学芸員は必要である。しかし、美術館に必要な専門職を学芸員に限定するところには美術館の限界も見えてくる。学芸員が統括し、学芸員のできない職種は外注するという発想ではなく、美術館に学芸員以外のなにものが必要かを考えてみてはどうだろう。 たとえば、美術館には美術品が必要である。とすると、極論すれば、かつて、教会の仕事を発注された美術家のように、美術家が美術館に雇われて美術品をつくるということがあってもよいのかもしれない。美術家が学芸員と同じ報酬を与えられて、制作に専念できるシステム。美術家の仕事に必要なスケール与えるシステムを供給する美術館というイメージはどうだろう。 専任の学芸員のほかに、期間限定で雇用される特定の展覧会やプロジェクト専属の学芸員があってもよいかもしれない。美術館に美術をキュレーションしようとするフリーランスの英知を編集する開かれたシステムがあればよい。民間の英知をとりこむにせよ、美術館の運営のコーディネイトには専門の学芸員が必要である。 [2] (美術、美術家と美術館はある面、共犯関係にあり、美術家としての私は美術館を必要無いとは考えにくいが)本質的には、美術は常により大きな歴史や文化にとりこまれるので、日本の社会の美術が大きな美術によって植民地化されないために日本に美術館は必要である。 大きな美術によって日本の美術を植民地化するようなオブラードにくるまれた啓蒙のための美術館は必要無いかもしれない。私たちにとって美術とはなになのか、日本の社会にとってとらえがたい美術のために、私たちの現実に立脚した哲学を打ち立て、私たちに提案して見せる創造的な使命を美術館は持っている。 ゆえに日本の社会に美術館は必要である。 [3] 西洋的な文化史創造、物語による戦争機械としての美術館であると同時に、一個人を美術をもってもてなすことのできるようなシステムを併せ持った美術館があればすばらしい。 ▲top
[1] 美術館に関わる専門職として、学芸員は必要である。しかし、美術館に必要な専門職を学芸員に限定するところには美術館の限界も見えてくる。学芸員が統括し、学芸員のできない職種は外注するという発想ではなく、美術館に学芸員以外のなにものが必要かを考えてみてはどうだろう。 たとえば、美術館には美術品が必要である。とすると、極論すれば、かつて、教会の仕事を発注された美術家のように、美術家が美術館に雇われて美術品をつくるということがあってもよいのかもしれない。美術家が学芸員と同じ報酬を与えられて、制作に専念できるシステム。美術家の仕事に必要なスケール与えるシステムを供給する美術館というイメージはどうだろう。 専任の学芸員のほかに、期間限定で雇用される特定の展覧会やプロジェクト専属の学芸員があってもよいかもしれない。美術館に美術をキュレーションしようとするフリーランスの英知を編集する開かれたシステムがあればよい。民間の英知をとりこむにせよ、美術館の運営のコーディネイトには専門の学芸員が必要である。
[2] (美術、美術家と美術館はある面、共犯関係にあり、美術家としての私は美術館を必要無いとは考えにくいが)本質的には、美術は常により大きな歴史や文化にとりこまれるので、日本の社会の美術が大きな美術によって植民地化されないために日本に美術館は必要である。 大きな美術によって日本の美術を植民地化するようなオブラードにくるまれた啓蒙のための美術館は必要無いかもしれない。私たちにとって美術とはなになのか、日本の社会にとってとらえがたい美術のために、私たちの現実に立脚した哲学を打ち立て、私たちに提案して見せる創造的な使命を美術館は持っている。 ゆえに日本の社会に美術館は必要である。
[3] 西洋的な文化史創造、物語による戦争機械としての美術館であると同時に、一個人を美術をもってもてなすことのできるようなシステムを併せ持った美術館があればすばらしい。
渡辺信明
芦屋市立美術博物館の問題は私もよく承知してまして、以前、職場や仲間にも呼び掛け、微力ながら署名などで少し協力をさせてもらったことがあります。 美術館は表現活動をしている一個人として、なくてはならない当然の施設という認識ですが(もちろん学芸員の必要性も)、一般の多くの世論がそう思っているのかどうかいつも疑問に思います。美術というもの、それを支える環境そのものに対する風当たりとでも申しましょうか、間違った知識や情報、教育がまず日本の根底にはびこっているように思えてなりません。美術がすばらしい文化という側面からよりも、経済や政治的背景から語られることに人々はより強い関心があるからかも知れませんね。 あまりにも身近でそして大きなテーマだけに、うまく書けませんが、とにかく国の、体制側の不本意な圧力が匂う今回の芦屋の問題と今後の美術館をとりまく社会の在り方が、一般の人々の関心事として提示されたものでした。美術家として私もしっかり考え、見守らなければと思っています。 シンポジウムは拝聴できませんが、実のあるものになられることをお祈りしています。 ▲top
芦屋市立美術博物館の問題は私もよく承知してまして、以前、職場や仲間にも呼び掛け、微力ながら署名などで少し協力をさせてもらったことがあります。 美術館は表現活動をしている一個人として、なくてはならない当然の施設という認識ですが(もちろん学芸員の必要性も)、一般の多くの世論がそう思っているのかどうかいつも疑問に思います。美術というもの、それを支える環境そのものに対する風当たりとでも申しましょうか、間違った知識や情報、教育がまず日本の根底にはびこっているように思えてなりません。美術がすばらしい文化という側面からよりも、経済や政治的背景から語られることに人々はより強い関心があるからかも知れませんね。 あまりにも身近でそして大きなテーマだけに、うまく書けませんが、とにかく国の、体制側の不本意な圧力が匂う今回の芦屋の問題と今後の美術館をとりまく社会の在り方が、一般の人々の関心事として提示されたものでした。美術家として私もしっかり考え、見守らなければと思っています。 シンポジウムは拝聴できませんが、実のあるものになられることをお祈りしています。